2015-02-03

マスコミから垂れ流れる情報受け手判断

数人でコミュニケーションを取る時、

信者と受信者がいる。

信者は受信者に、

意思情報を伝えるための、その手段を選択する権利がある。

私はリンゴが好きだとか、明日はきっと晴れだとか。

リンゴが好きという伝達には、

リンゴが食べたいからプレゼントして欲しいという思いが込められているかもしれないし、

単なるミカンよりリンゴが好きだと言う意思表示かもしれない。

例えば相手がリンゴを好きならば、

それは共感を得てお近づきになりという、

リンゴとはかけ離れたところにある意思の伝達であったりもする。

リンゴが欲しければ、リンゴを買って来てと単刀直入に伝える事も出来るし、

お近づきになりたいならばリンゴの話などせずに、SEXさせてくれということも出来る。

言葉手段だ。

信者は、より良い目的遂行の為に手段を選択出来る。

リンゴの話をした方がお近づきになれる可能性が上がるのかどうかは知らないけれど、

初対面でSEX単刀直入にせがむよりは、色々と都合上良いと思う。

信者は相手の手段を受け取った時に、

あらゆる解釈を選択する権利がある。

リンゴが好きだと聞いて、

単にこの人はリンゴが好きなんだなと解釈することも出来るし、

私と会話したいのかな、仲良くしたくてコミュニケーション取ってるのかなと解釈するもいい。

あるいは、

まさか私にリンゴを買ってこいとでも行っているの?厚かましい奴。

と、解釈する自由もあると言うことだ。

相手の意図がどうであっても、解釈自由だ。

但し、解釈の濫用は圧倒的なミスコミュニケーションを産む。

そして、発信者は往々にして意図通りの手段を選ばない。

世の中はとかく婉曲が多い。

ストレートもの言いより、

婉曲表現の方が円滑に目的を達成する事が多いのだと思う。

からこそ、

婉曲の多い世の中で、

ネガティブ解釈が癖付いている人にとって、

さぞかし世の中は悪意に満ちているだろう。

ネガティブな受信者ポジティブに受け取ってもらえるような、

信者手段を探してる。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん