われわれ人間にとって、「生きる」とは何だろうか。一体、何がわれわれの生と死を定義付けているのだろうか。医療技術の発展は、このような問いをわれわれに投げかける。
一般に、死は心機能あるいは脳機能が不可逆的に停止し、生物としての機能を失った状態であると考えられている。またいくつかの国では、脳機能の一部が停止し意識が消失しているものの、呼吸や心機能など無意識的な人体の基本機能が残存している場合にも、それを「人間らしい生」の終息として、尊厳死や安楽死として「死」と定義している。
医療技術の発展は、人の「体」の寿命をのばすことに成功したが、同時に「人間らしい生き方」「心」とは何かという疑問を提起した。その結果として、尊厳死や安楽死の考え方が生まれたのである。
だが、「人間らしい生き方」を追求することは、死の定義を過剰に広げてしまわないだろうか。そもそも「人間らしく生きる」とはどういう状態のことを指すのだろう。
例えば終末期のがん患者の場合、完治の見込みがなくなった際には、重い副作用のある抗がん剤による治療をやめ、自宅に帰り家族とともに「人間らしく生きる」ことを選択することがある。この場合、「人間らしい生き方」とは家族とともに普通の日常生活を送ることを指すこととなる。
この考えに従うと、ホームレスなどの自宅も家族も持たない人々は人間として死んでいることになる。
あるいは、自己を認識する「意識」を人間らしさであると考えてみよう。
すると重度の精神障害者や認知症の人々はどうなるのだろう。彼らは自己認識を持たないゆえに、人間として死んでいるのだろうか。