2014-03-12

3.11文化

3.11という言葉が、それを大層に扱わなければいけない空気が苦手だ。大変なことがあったのはわかる。いやわからないけど知識として知っている。でも大変なことは3年前の東北以外でもたくさん起こっているだろう。無念の死を遂げたひとも、突然大切な人を亡くしたひとも、ずっとずっと苦しみから抜け出せないひとも、何十万人もいるだろう。一回のできごとの規模が違うからなんだというのか。

2011年3月11日中学校卒業式だった。

きっとこれから何十回と3月11日出会う。

その全てを忌まわしい震災の日にしないでくれ。悲しい日にしないでくれ。

悲惨写真を見て被災者の状況を聞けば心は痛む。たぶん人並みには震災の話を聞いてきた。嫌でも聞かされたし目に入ってきた。それでも私は今回の震災に興味がないのだろう。駅前ボロボロの服を着てこの寒いなか裸足で寝ている人すら何の関わりもない他人なのだ。どうして一度も行ったことのない東北に思いを馳せ続けることができよう。そんな私が3月11日だけ常に悲しんでいるし力になりたいと思っていますなんて面はできない。力にはなりたいが困っている人がいればなんとか助けたいぐらいのものだ。ボランティアに行って本当に力になれるのだろうか。調べる気力すらない。自分でも最低だと思う。だからいい人で溢れかえる3月11日は窮屈で苦手だ。我がことのように被災した方々を想えない罰と受け止めるべきなのか。

どうせ忘れてしまうから年に一度みんなが振り返る日があるのはとてもいいことだと思う。それがもう少し静かに振り返ることができる日になったらもっといいと思う。まあ無理なんだろうけど。

どこまで3月11日震災に縛られ続けるんだろう

日が変わったので書いた。

説教があれば是非お願いします。

  • 俺も思い出したくない人に無理にリコメンドさせる必要はないと思うよ 3.11案件のほとんどは感傷に浸ってンギモヂイィしたい人ばっかだし

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