「価値観は人それぞれだ」とはよく言ったものだが、これをミーム概念を知った今考えてみると「善悪の価値観を築けない」っていう状態になる事がある。
価値観、正義などはミームの集合体、情報のパッチワークとして、要は「個人がどのような情報を取得するかで善悪は決まる」という事だ。
俺たちは「人殺しは悪い」という情報を与えられているから殺人を原則として「いけない事」と認識する。その情報が与えられていないなら殺人は悪とはみなされなかった筈だ。まあ、人がミームを重視するようになった理由、進化からしてあり得ない事だが。
これに気づいたら、思想を「正しいか否か」ではなく「どのような構造をしているか」で見るようになってくると思う。今の俺がそうだ。
この状態で思想を正しいか否か判断する事は、例えば「どんな構造の建造物が正しいか、正義たり得るか」と論じているに等しい行為だと思うからだ。思想はその個人が取得した情報の寄せ集めにすぎん、して多角的に見たらその思想は間違っていることにも、正しい事にもなる。
ならば「何が正しいか判断する」というプログラムは意味を成さない事になる。それこそ自己というミームの集合に「善」として適応するか否かの問題になってくるわけで、それはそのミームが己の中でどのように繁殖するかにすぎない。
「善悪の領域が初めからあり、それを元に判断する」のではなく「既存のミームの集合体にどう適応するか」で善悪が決まるというのならば、個々のミーム自体は本質的に同じだ。この思想状態で「何が正しいか判断しろ」という指示自体が意味を成さないのだ。