「いじめられる側の苦しみ」は「いじめる側の快楽(安心感、快感、優越感?…etc)」とゼロサムだと考えれば、総和は変わらないと言える。
また、前者が大きい「から」いじめは悪いことだ、という論が成り立つか? 多分成り立たない。なぜなら、それが成り立つなら、後者が大きい場合には、いじめは悪いことではないという理屈になってしまうからね。「総和を増やすことが善だという前提は危うい」という主旨のことを別の増田が書いているけど、そういうことだと思う。「サバイバル・ロッタリー」に関する話を聞いたことがあるだろうか? 知らなければ、一度見てみるとよいと思う。
個人的には、
・「一人の苦しみ」を計量することは不可能である。
・「苦しみ」と「快楽」を、計量的に比較することは不可能である。
(前者は命に関わる割合が大きいが、後者は直接は命に関わらないことが多い)。
・Aさんという人間の価値を、Bさんという人間の価値と比較することはできない。
・人間には「共感」し「予測」する能力が備わっている。そのため、「一人の人間の不当な苦しみ」の存在は、全ての人間の生存に対する脅威となる。
(昨今の、いじめ問題への社会の多大な反応は、そのよい事例である。)
ゆえに
・いじめ問題を総和で論じることはできない。
と考えている。
とある大学の院生。大津のいじめ事件について科学的に考えてみよう。 「いじめは苦しい」 「自殺すればそれ以上の苦しみが消える」 「社会全体の苦しみ=社会の構成員の苦しみの...
「いじめられる側の苦しみ」は「いじめる側の快楽(安心感、快感、優越感?…etc)」とゼロサムだと考えれば、総和は変わらないと言える。 また、前者が大きい「から」いじめは悪...
別の人間がいじめられるようになれば苦痛の総量は減らないし遺族が悲しむなら苦しみ増えるかも
元増田。遺族が悲しめば苦しみ増えるのは考えたけど、「別の人間がいじめられるようになれば…」は思い至らなかった。なるほど。
人類が絶滅すれば苦しみの総量がゼロで最適解ですね! という冗談はさておいて、前提を認めればその結論は妥当でしょう。 異なる人同士の苦しみを同じ尺度で計算することが妥当で...
いじめってのは、「自分の不快感を他者に押し付けて軽減する行為」だよ。 だから、自殺した人間が死んでも、苦しみの総和は変わらない。 「いじめっこ」達は本能に従って機械的に...
そんなことも分からんのか知恵遅れが カッコつけんなボケ