結局のところ得るものはなかった。
『ポスト・エヴァ』とか『セカイ系三大作品』とか、Keyの一連のアレとかを乱暴に括って揶揄した言葉、という印象には変化はなかったし、特に目新しい発見はなかった。
まあ、俺より随分年下の若手オタク系評論家の文章をちゃんと読んだのは初めてだったのでそれなりには面白かった。
彼らが作った同人誌を持ってるのに読んだことはない。更科修一郎の名前を見かけたから買ったようなもんだ。
更科修一郎という人間は、評論の形をかりて自分語りをやっていた。自己表現というものは大なり小なりそういうものだろうが、彼が評論家をやめた理由が俺には分かる気がする。理論武装というものの危うさを彼は知っていた。彼の評論には、いつも自分を含むオタクというものに対する批判が含まれていた。自説を強化するために借り物の理論を持ってきて、歪な欲求を正当化する欺瞞を彼は知っていた。あるいはある時から気付いていた。自分の評論が自分の忌み嫌う人たち(自分もその一員なのだということはさておき)の自己正当化の手段として使われることに我慢が出来なくなって彼は評論をやめたのではないか、と俺は思う。
結局声のでかいものが勝つ。最後までわめき続けた方が勝つ。その事を承知の上で自分語りをしたいなら、評論を書けばいい。
俺ならまだ誰も読まない物語を書いている方がましだ。