一話目が主観目線で希望のない荒野を映し出したのに対して、二話目は完全に客観目線なので感情移入より社会派を目指したのかな、という冷静な目線に立ち戻ってしまう。要するに突き放した目線で見てしまう。内容もナショジオなどで取り沙汰されたクマリの儀式を模したもので、作中の価値観は極めて現代的な「自由」を標榜したもの。
人身御供などの題材は普通、洗脳下における人物の感情の無情さ、無機質さ、怖さが必ず絡んでくる。あるいは逆に、そうまでして守りたい信心というあらゆる意味で多角的に文化を捉えなければならないものでもある。今回はそうした重みのある題材を軽々しく作品にしてしまった。こうしたものの取り扱いには現地の倫理観という優先すべき事項も存在するわけで、外人であるほぼ西洋化した日本人の感覚で語ることは、本来あまり歓迎すべきことではないように思える。タンクトップの女も民族衣装的ではなく、歴史を正視するノイズになっている。
一方(原作未読だが)二話以降は感情の伴わない神が送り出した物体と少女との不思議な交流がメインとなるわけで、感情が伴わないものと感情豊かなもの、死なないものと確実に死にゆくものの対比が描かれる。そう考えると歴史的に行われる人身御供や巫女の儀式は全くメインではなく、視聴者が感じる旅情感と作品のメインモチーフである「人であることとは」という現時点の問いかけに全力で振り切っていると言い換えたほうが適切なのかもしれない。それならなぜ重たい背景を持つクマリをあからさまに題材にしたのかという疑問点は残るが。