2020-07-29

無理して無理して走り続けろ。努力だ、明日は来る。

いろいろな著書や成功者の話を聞けば聞くほど確信に近くなる。

日常とは葛藤であり、葛藤から拡張してゆくことでやっと日常が保てる。

走り続けてやっと後退しなくなる、というたとえではしっくり来なかった。

こうした見えない日常の膜というか外圧というか、そんなものを両手で必死に押しきれない人が鬱にかかったりする。

ところが鬱病者を見ると、人は大抵自身日常を両手で押していることを義務と感じてしまう。

結果鬱は甘えだなんて言説が出てくる。恒常性を保つには運動必要で、運動には心が必要だ。

心の動きが弱くなると膜が圧力を増してくる。

で、タイトル真逆概念を書いてる。

多分鬱の人はこういう心象を内面的に抱えているし、外からも言われている。

内面の風船は否応なく膨張し、外面の膜で呼吸もできなくなる。

恒常性を保つ運動は歩く動作に近い。

歩くことは基本誰にでもできるが、年をとるとその動作特別だったことに気づく。

まり足は日常という恒常性を押し留めながら前進してくれていた。

しかし足は突然動かなくなる。内蔵も老廃物を処理しきれなくなり、体臭がきつくなる。

老人化が悪だという人はいないし、病気を悪だという人はいない。

しかし心の病気にかかって恒常性を失った人が病気である認識される日は遠い。

増田現在鬱ではないものの、恒常性日常の闘いについてなんとなく実感が湧いたので記しておく。

多分感覚ごと伝わらない。

少なくとも、生きることは普通ではなく、生きること自体が案外特別なことだと思う。

状況を維持するのは普通ではなく、実は常に小さく葛藤し続ける闘いだという話。

  • 俺はダメなやつだけど、ちょっとずつまともになってきたから、少しずつ頑張りたい。

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