2019-02-16

anond:20190215084812

割と共感しますし、面白いですね(笑)

 神道折衷だって話もありますけど、キリスト教(と言うかアブラハム系)もそうらしいですしね。

現人神定義三位一体論に共通点があったり、"神" そのもの定義矛盾が有るのも "人" が原因だ、とすると解決できる面は多い気がします。

 そもそも、唯一という言葉が人の感覚であって、他の方の言うように全能性や量子性を持ち込むと意味のない事かもしれないんですよね。

数の概念を超越していれば "1" であると同時に "0" でも "八百万" でもある神の定義も有り得ますし、全能であるのなら寧ろそれが当然。

 全能の神でも持ち上げられない石を云々、もそうですが、人の意思と時制の概念を持ち込むと解決できそうに思います

「人は自分意志を持つ」のが神に作られた人の条件であるとすれば、全能であるはずの神は人の意思に介入できないわけです。

 持ち上げられない石を出現させろ、も、それを持ち上げろ、も、人の意志であって、同じ石であるのに人の意志時間的なずれによって前提条件が変わっているから起こる矛盾とも言え、矛盾しているのは人であって神ではないという解釈可能です。(人と神が同じであればそれにも何も問題はないですが)

 もっと言えば意志とは何か、という話もあり、我々が常に意志を持っているかと言えばそうではないわけで、神は存在すると同時に存在しない、と言うような定義可能かもしれません。時間すら超越するのが神の条件だとすれば、何ら問題はありません。

 ですから、神は唯一であってどこにでも存在し、自分と同じであって我々でもあり、同時にどこにも存在せず、全能であると同時に無能であり、全てを知っていながら何も知らない、宇宙終焉すらも知りながら数秒後に我々が何を考えているかすら知り得ない存在(するかどうかもどーでもいい)である、とw


 要は本当に全能なら宗教定義ときは超越するのが当たり前で、無神論者すら包摂すべきじゃないか、と。

しか定義も論も "我々" が決める事なので神(々)ごときが介入する事でもなく――、

 話が循環してるのでやめます

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