社会人として当然、やそれに類する言葉は現代社会でよく使われている。
しかし、人間として当然ではなく社会人としてと条件が付されているからには、社会人以外には当然ではない場合も有りうるということを考えるべきではないか。
中高生などを相手に「社会人としての常識」を偉そうに語って説教している人を見ると、そんな気分になる。
「社会人なら出来て当然」のことが出来ていない学生は確かに多い。
とは言え、社会人じゃないんだから、社会人として当然のことが出来ないこともあるというのは当たり前ではないか。
大学生ならまだ、高卒で就職した人は社会人なのだから、といえるかもしれない。
しかし、中学生相手に社会人の常識とやらの遵守を求めるのはかなり無理があろうし、
ゆえに、高校生に社会人の感覚を身に着けろと行ってもなかなか厳しいだろう。
年齢的に社会人である可能性が高い院生などでも、そもそも社会人としての責任と義務を負う立場にない。
「社会人として」を社会人以外に要求するというのは、正直言って大人げない行為にも見えるし、子供が社会人ならできることができないという前提に立って
準備などをするべきというのは、それこそ「社会人ならできるべきこと」ではないのか。
経営者の目線で考えろ、みたいな責任放棄丸投げの一種かな。
ていうか「社会人」って言葉なんなんだろな 辞書で調べると社会ってのは 生活を営む人々のあつまり とかでてくるけど 社会人って言葉を使うときの社会ってのは、労働の場だけを指し...
君らの書き込み見て今気づいたけど、これって一種の洗脳ワードだったんだな。 労働者は社会に貢献する規則正しい模範的な人であらねばならぬみたいなイメージを植え付けるための洗...