アウシュヴィッツはとおいむかしのこととなった。
それがいったいどのようなものだったのか、今の私たちには想像することもむずかしい。
アウシュヴィッツを知らなくても私たちは生きてゆけるだろう。私たちは自由だ。
だが、事実はゆるがない。
その数は180万にのぼること。
180万の心があったということ。
そして、その心をなんのためらいもなく消し去ったのもまた、私たちとおなじ心を持った人間だったということ。
そのときそこには人の心をゆがませる強大な力がはたらいていたということ。
私たちは自由だ。アウシュヴィッツを忘れ去ることができるほど自由だ。
それほどの力を私たちは手にした。
でも、その自由が血塗られた歴史のうえにあるとしたらどうだろう。
過去を忘れて自由をとなえることは、自由というものの意味の重さを取りちがえることになりはしないか。
人の心をゆがませる力を、ふたたびまねくことになりはしないか。
自然な心を持ち、自然に生き、自然に死ねることがどれほどすばらしいかを、世界中の人々がわかりあえる日は来るだろうか。
それは私たちしだいだ。
そして、その日が来るまでアウシュヴィッツは終わらない。
遠い昔、私たちとは関係のない場所で、かれらの叫びは時間とともに消えていった。
180万の名も知らぬものたち。
でも、耳をすませば聞こえるはずだ。
心を開けばわかるはずだ。
生まれた国がちがおうと、生きた時代がちがおうと、私達はみな同じ心を持った生き物だ。
物言わぬ者たちの声を聞こう。
さまよう者たちの姿を見よう。
かれらの心を受け入れよう。
アウシュヴィッツを繰りかえさぬため。
アウシュヴィッツを終わらせるため。
つたないが、今につうじるものをかんじるので記した。
・犠牲者総数は1990年代後半時点でのポーランド国立オシフィエンチム・ブジェジンカ博物館公式発表のもの。
具体的には、