親戚の女性が、正月にみんなで集まった時年配の人が言う「嫁をもらう」「嫁に行く」という表現にやたら喰ってかかっていた。「結婚する」なら良いんだそうだ。
まぁこうした表現をすべきなのはフェミニズム的見地からすればその通りだと思う。私も「嫁をもらう」は現代では使わない方が穏当であることは充分にわかる。
だがな~それを大正生まれのばあさんに言うか?言葉の遣い方の向こうにある、「なぜ「嫁をもらう」がダメなのか?」についての時代背景をちゃんと伝えられるのか?
今の時代の婚姻のあり方が問われているのであって、問題は「嫁をもらう」を使うか否かでは無いはずだ。
まぁ実際ばあさんが持っているような結婚への認識は、現代においては改めて行かなくてはならない、ってのはわからんでもない。
だけどそれは若い世代が留意していけばいいのであって、どうしてばあさんが今まで生きてきて培ってきた感覚まで掘り返さなくてはならないのか?
ばあさんの感覚・認識を今からジェンダーフリーへと開放していくことを重要視しているのだろうか。
(いやもちろんそれは大事なんだが、正月のこの時期の短い会合でそうした「常識」の転換を迫るってのは難しいじゃねえの、という話)
こんな風な本で読んだ知識・学んだ学問だけで実践に挑むのは暴力だ。ばあさんへの。
twitterとかでこうした社会学への言及するのとはわけが違う。目の前にいるのは近代~現代という激動の時代を80数年生きてきたばあさんなのだ。
もう少し、「嫁をもらう」の是非だけにこだわらない言い方があったのではないか。
そして私はばあさんの生きた時代と私たちの時代はどう切り結ぶのだろうかとか余計なことを考えてしまった。
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なるほど年寄りに配慮しろってより俺様に配慮しろってことか