自分のために生きるというと誰だって自分を一番大切にしてるし自分のために生きてると反論してくる人がいる。
しかし、自分のために生きるというのはそんなに簡単なことではない。
自分のために生きるというのは、自分が幸福になれる行動を常にするということだ。
たとえば、お金を稼ぐために嫌な仕事をやる。これは自分のために生きていることにはならない。休日に自分の趣味を楽しんでるといっても、それはその日だけ自分のために生きているということにしかならない。
たとえば、両親の介護のために自分のやりたいことを我慢する、これも自分のために生きていることにはならない。
じゃあ自分のために生きるには他人をないがしろにしなきゃいけないのか、他人の幸せを踏みにじってまで自分のやりたいことをやるのが自分のために生きることなのか、という人がいるだろう。
そうではない。
自分のために生きるからといって、他人を不幸にして良いことにはならない。他人を不幸にしないというのは、自分のために生きていれば自然に達成されることだからだ。
他人を利用して自分が利益を得られるように行動している人を「自分のために生きている人」と言うのは間違いである。彼は自分のために生きてはいない。
他人を不幸にすれば、そこには必ず・どんな人間であっても「痛み」を感じるからだ。その痛みを感じないようにどんなに訓練しても意味が無い。もし訓練の結果、他人の痛みを感じなくなったとしよう。すると今度は自分の幸せを感じることが出来なくなってしまう。他人の痛みを感じることは、人間が人間らしく生きる第一条件だからだ。
他人を利用してまで自分の利益を得ようとする人は、そこに発生する他者の痛みを無意識に押し込めているだけでしっかりと感じている。自らが痛みを感じることをする人を「自分のために生きている」といえないのは明白だ。
自分のために生きるとは、自分も他人も全ての人が幸せになれるように生きることである。
両親の介護のためにやりたいことを我慢しなきゃいけない、ともし感じているのなら、それはその人のやりたいことというのを優先するためならば誰かを不幸にしてもいいと思っていることだ。
結局のところこれは考え方を変えるということに尽きる。両親の介護という新しい生活を楽しめば、「我慢」は必要なくなる。それに、全く自由な時間がとれないわけでもない。
自分を痛めつけないことも、自分のために生きるためには重要なことだ。
やりたくないことをやる、誰かの言うことに盲目的に従う、そういったことはストレスや病気に繋がり、自分が自分の人生を生ききれていないことを教えてくれる。
他者のためを思ってやることというのも、一見すると善意に見えるが、その背後にあるのは自分の善意で相手をコントロールしようとする「エゴ」である。
また、他者に何かを期待するのも、他者をコントール、自らの支配下に置こうとする姿勢である。
他者ではなく自分が何をやりたいのか、それを明確にするのが第一だ。そして、他者が求めていることに応えるのが第二。
他者に奉仕することは自らを奴隷とすることではないかという反論もあるだろう。しかし、それも考え方の問題である。
そもそも他者とは鏡に映った自分である。他者に奉仕するとは自分に奉仕するということ、自分に奉仕するということは自分を癒すということ。
全ては自分のために生きるためだ。奴隷と言う発想は他者を「自分に危害を加える存在」としか見ていないから生まれてくる。
自分であるところの他者についてそう思うということは、自分を信頼していない、自分への不信に繋がる。だから、他者を信頼できない人は外的なパワーを求める。代表格は金だ。