なんだかんだいっても、先進国であり、格差も少なく、戦争への加担も少なく、争いを嫌ってなあなあで済ます平和主義の日本人。
ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。ウンコー。
日教組の両親に育てられ、中学になると家でとってた朝日新聞を読むようになる。
高校に入学するとともに2ちゃんを始めてネトウヨ予備軍となる。
大学のサークルで出会った在日の子に惚れて付き合うようになる。
誰の意見にも流されやすく、
ニュー速の意見に同調していっちょ前にマスコミや特定の団体を批判したかと思えば、
はてなでそれに反対する意見を聞いて「お、それは真っ当な意見だ」とか思ってみたり。
結局、自分にはソースを読んで自分の考えを持つということができていない。
どうやったら確固たる自分の筋を通せるのか?
住んでいないでそれをやるのは禁止されている、から選択制で納税先を変えられるようにしようというのがふるさと納税。ということでこれを認めるならふるさと納税は総論では賛成せざるを得ないんだわな。
http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000417.html(おおやにき)
つまり私は、棄権も白票も同じくnon commitment (関与なし)であり、その意味するところは双方に0.5票ずつ加算するのと同じだと、こう理解している。non commitmentに独特の意味を認めないこのような視点からは、たとえば朝日前掲社説に以下のように言われても……
仮に投票率が4割にとどまった場合には、最低投票率の定めがなければ、有権者のわずか2割の賛成で憲法改正が承認されることになる。それで国民が承認したとは、とうてい言えまい。
なんで? と真顔で聞き返すしかなくなる。投票しなかった6割は半分支持・半分不支持と計算されるので賛否双方に3割ずつ加算されることになり、すると2割+αが積極的な賛成票を投じているのであれば合計して賛成者は5割+αになるではないかと、そう思うわけだ。積極的な意思表示をしなかったことは、賛否に中立としか捉えようがないではないかと。
へんな論法。真顔で聞き返すということは上記のロジックは自明であろうという前提が垣間見られる、が。。。
「non commitmentに独特の意味を認めないこのような視点」を自明のものとしてとらえていいのであれば、わざわざ視点を提示することもなかろう。
私の感覚では「投票しなかった6割は半分支持・半分不支持と計算される」という、国民審査類似のなロジックほうが不自然に感じる。
ことに憲法は有権者のコミットメントが正統性を担保する非常に重要なファクターであるのだから、朝日新聞の主張のほうがわかりやすい。真顔で聞き返すほどのへんな主張とは思えない。
すごい。景気いいですねその鉄工所。
時折日本というものがもう嫌いで嫌いで仕方なくなる。その後決まってなんで日本になんか生まれたんだ……と軽く絶望するものの、現実的に例えば他国で暮らすことを考えてみると他国は他国で酷いもんで、なんかもう今の世界にまともな国は一個もないのか……とまた更に絶望してみたりして、どんなもんよこれ、どこに生まれりゃよかったんだろうとかまあ意味も無い事を考えてるとふっと
「ああ…どこの国だろうが金持ちの家に生まれればよかったんだ」
という事に気付き、更にプチ絶望。
自分の現在抱えている悩みが、金持ちの家に生まれてたらほとんどは解決しているという事実を考えると、やっぱりなんか空しい気がする。金持ちの親のところに生まれただけで今抱えてる悩みはなくなってその分他の事ができるだなんて。人生不公平すぎてやってられんよ。結局そういうところに生まれてくるってことも、才能を持つことも、全てひっくるめて「運」なんだよな。
まあでも、どうせだから、死ぬまで「俺的理想の人生」を追求してみるけど。どうせ死ぬし。人間って生きる時間短いよな。昔はよかったのかもしれんけど今のこの情報量と人間の寿命ってどう考えても不釣合いだよ。せめて100年は元気で活動できる時間が欲しい。
ネットにどっぷり埋まっている時は気付き難いんだけど
一旦例えば、「1ヶ月ネットやらない」とか決めて実行してみると、
漬かってるときは平気で攻撃したり煽ったり色々できるけど
ネットからしばらく去ってると、感覚が以前の平常なものに戻っているからか
2chとかにあるあからさまに煽りな文を見るだけでドン引きしたり、いやーな気持ちになったりする。
同時に「以前はこんなものに囲まれて過ごしてたのか」となんだか妙な気持ちになる。
平気で罵詈雑言が飛び交い、相手の事を微塵も考えていないような酷い言い回しや
相手の傷をえぐるような発言etc……今更過ぎるが、やはり酷いもんだと思った。
確かに刺激だけはあるから、一旦漬かり始めると止めにくい。しかもその刺激も
慣れていくと更に酷い刺激を求め始め、最終的には人を人とも思わないような酷い思想に染まった人間の出来上がり。
ネットを離れると、それがいかに気持ち悪いことだったかがよくよくわかる。
テレビとかで「ネット上の、某掲示板なんか酷いですよ。クズばっかです」的発言を聞いては
実況なんかに飛んでその発言者をあざ笑っていた自分が今となっては恐ろしい。
だからといってネットが全部駄目だという意味じゃ勿論ないんだが、それにしてもひでーなと実感。
クズであることにも気付けなくなっていたというのは怖い。まともに相手をしてはいけないものの中に
囲まれていたというのが今思えば気持ち悪い。
海外でもこんなに酷いもんなのか。
やっぱり匿名性がそうさせるんだろうか
はてなとかブログとか、少しは匿名性レベルが低くなったものだと、やはり言及されてることが2chとかよりは酷くない。
ネットは怖いな。やろうと思えばどれだけでもダラダラやれてしまう。
全ての情報が対等なのも、怖い。いいところでもあるけど。クズな発言も、有力情報も、対等に写ってしまうから、クズをクズだと分からずついつい使ってしまう、相手してしまう、そういう事が起きてしまう。つくづく玉石混合。9割は単なる石ころ。それを自覚していないと本当に危ないな。と今更ながら思う。あーこえーこえー
NHKでなんかやってたんだが見てて腹立たしくなった。
これは「今住んでいる町をよりよい町にするため」だ。
ふるさと納税なる税制は、
「過去に自分が住んだことがある町をよくするため」に税金が流用される。
本当にナンセンスだと思う。
ふるさととは何だ?
本籍地?それとも両親が住んでいる地域?
転勤族はどうなる?
大儀はごもっともだが、そのコストはどうなる。
田舎に好きで住んでいるわけじゃない。
田舎を切り捨てるのか!
・・・この論法は卑怯だ。
年寄りが生まれ育った土地を動きたくないのは心情的によくわかる。
だが、国といえども財源は無尽蔵じゃない。
結局は税金なんだ。
http://anond.hatelabo.jp/20070519215956
今のままが良いと思う。
何がどう飛躍したんだ?
観たよ。眼鏡の子がけっこう俺はかわいいと思った。あの子っていうか今日出た子たちは来週も出るのか?