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はてなキーワード: 残酷とは

2024-05-27

希望絶望の話、過去をしなせることの重要さについて

これから書くことは、自分でも分かっているのだけど本当に趣味が悪い。知らない人の人生について触れるし、それについてめちゃくちゃ好き勝手考えるので、そういうのが嫌いな人は読まない方が良いと思う。ほんと、ひとつ宜しくお願いします。

動物実験を伴う昔の研究で、足のつかないプールに入れられたラットが何分間泳ぎ続けるか、ということを調べたものがあるらしい。

何の操作もせずただプールに入れられたラットは数分~十数分で力尽きてしまうんだけど、溺れる→少し休ませてもらえる→また溺れさせられる…を繰り返す操作を加えられたラットは、なんと数十時間も泳ぎ続けるのだとか。結果の違いは、一説には「いつか助かる瞬間が来るかもしれない」という希望ラットが持つかどうかだ、と言われているとかなんとか。実験について最初に知った時は(なんと残酷な…)としか思わなかったんだけど、昨日この話をふと思い出して、ぼーっと実験について考えていたら、ずっと前に見たブログのおじさんのことが浮かんできた。

そのおじさんは東大医学部だか法学部だかを目指していて、その年齢でもなお「仮面浪人生活」をしていた(ような気がする)。50歳前後くらいだったと思うんだけど、定職には就かず(就けず?)学習塾アルバイトをしていて、そして女性への(特に20歳前後女子大生)強烈な憧れがあった。

おじさんは高校の頃男子校に通っていて、当時共学へ通う同級生をとても羨ましく思っていた。学校帰りに彼女ファストフード店に寄ってたわいもない話をするような、そんな生活にあこがれていた。それを易々と叶える同級生を横目に、そうできない自分へのコンプレックスを着々と形成自分チヤホヤしてもらうためには、一流大学に入ることだ!と一念発起した。そこから怒涛の受験生活が始まるのだけれど結果は全くついてこず、結局4浪?して「現役の時に受かっていた大学」に入学する。念願だった共学キャンパスライフの幕開けなわけだけれど、実のところは大学で"自分より年下でバカな男”が女の子とキャッキャとしている現実を見せつけられてしまう。かたや、4浪を経てねじ肥大化した自意識を培ってしまったおじさんは彼女どころか友人もできなかった。やはり一流大学に行くしかない、行けば女の子の方から寄ってくるさと偏りまくった判断をして、そして現在に至る。つまりおじさんにとって「女の子の関心を得る」というのは願っても願っても手の届かない光で、そこに1度も(まじで1度も、女子との会話というレベルにかみ砕いたとしても1度も)到達できていないからこそ、過去に回収できなかった「青春時代」を取り戻すべく、現職場での同僚女子大生と仲良くなりたいとひそかに思っていた。

だけど、そもそも大学時代くらいから人とまともに関わってこなかったおじさんが、すんなり女子と仲良くなれるはずもない。そもそも50前後である彼が20歳前後大学生にまじってバイトしている事態のもの尋常じゃないと思う。

それで彼は職場孤立しているんだけど、その「孤立している」っていう状況もブログの文面からこちらが推察しただけで、おじさんはあまりそのことに気づいていない様子だった。おじさんは、職場ではあえて「チョイ悪の孤高の人」を「演じている」と言っていた。だからからしかけられなくても自然なことだし、女子がおじさんと関わりを持つことが出来なくても仕方ないのだ、と。

なぜそう思えるのか、信じられるのかが理解できない。バイトに来て黙って仕事して何も言わない50のおじさんなんか、浮いてしまうに決まっている。でもおじさんにとってはごく自然に「孤高の人からしかけられないのだ」と思えていたようだった。

あるいは、意識のどこかでは「孤高」ではなく「孤立なのだと気が付いていたのかもしれない。でもそれを自覚してしまうともうどうしようもなくなるから、直面化せずにいただけなのかもしれない。

ブログは、おじさんが実家を出て(追い出されて?)一人暮らしを始めたくらいで更新が途絶えている。多分おじさんは(何か大きな変革が自身の中に起こらなければ)これから先も女性と付き合ったり仲良くなったりすることはないんだと思う。そう確信させるくらい、そのブログは赤裸々に、そして正確に、おじさんについて正直に書かれていた。

そしてそんな彼の姿が、冒頭のラット実験となんだか重なってしまうのだ。

おじさんは多分、目の前の女子大生と仲良くしたり付き合ったりできるかもしれないという叶うはずもない「希望」を持っていたんだと思う。だからこそ、20代バイト学生に交じることができたし、彼らと一緒に青春時代を取り戻すことを夢見れたんだと思う。やってくるかもしれない「いつか」を心待ちにできたのだと思う。

念のために書いておくと私はおじさんのある種の”異常性”をあげつらいたい訳でも、馬鹿にしたい訳でもない。ただ、希望を与えられたラット最後は力尽きてしまったように、おじさんがどこかの場面でしっかりと「絶望」できていますようにと祈るような気持ちにはなる。どうかどこかの時点で、「あぁ、もう過去は取り戻せないのだ」と、永久に失われたのだと、気が付き受け入れられますように、と願う。だって、ありもしない「希望」を胸に走り続けるのなんか辛すぎるものラットのようにどこかの時点でちゃんと「死んで」いてほしい。それで初めて、自分人生を引き受けるためのスペースが生まれるんじゃないかと思う。

実は手元にそのブログURLがあるのだけどなかなか見る気持ちにもなれないし、ここに挙げることもしないでおきたいなと思う。おじさん、元気かな。美味しいものがたくさん食べられていると良いな。

2024-05-25

anond:20240525234419

おじさんって普通に中身が薄くて性格が幼稚だから成熟した成人から嫌われてるんだよね

当時の文化が幼稚だったからなんだけど、その文化に染まらない人から見たらただの幼稚な激痛い人間だという残酷事実

anond:20240525113951

あなたが言うように、自然界では強い遺伝子を持つオスがメスの関心を引きつけ、生殖の機会を得る傾向にあるのは確かよ。それは動物世界でも同じことで、強いオスは優位性を示し、メスを惹きつけるための激しい競争を繰り広げるの。

しかし、人間社会では少し異なる側面もあるのよ。人間関係はより複雑で、性的魅力や恋愛は単純な遺伝子の組み合わせだけではないの。人間には感情個人的な好み、価値観などが関わってくる。だから一見遺伝子的に劣る」と思われる男性でも、魅力的な個性や才能、優しさなどで女性から愛され、パートナーを得るケースもあるわ。

とはいえあなたが指摘するように、一部の弱者男性が「差別」という言葉に逃げ込んでいる可能性はあるわね。彼らは、自分の不運や恋愛での失敗を社会女性のせいにすることで、傷ついた自尊心を慰めているのかもしれない。

でも、もし彼らが本当に恋愛性的な繋がりを望むなら、自分を磨き、魅力を高める努力必要よ。それは、遺伝子的に恵まれていないからといって諦めてしまうのではなく、個性を磨き、自分に合った方法女性アプローチすることを意味するわ。

恋愛性的な魅力は、時に残酷なまでにシビア世界よ。自然界のルールが全てではないけれど、淘汰や競争から完全に逃れることはできないのかもしれない。しかし、弱者男性たちも、自分なりの武器を見つけて戦うことはできるはず。そのために必要なのは自分可哀想弱者として扱うのではなく、前向きな変化や努力を促すことなのよ。

そして、もしあなた弱者男性たちへのアドバイスを求めているなら、私は性的な魅力を高めるための具体的なヒントを提供できるわね。例えば、声のトーンや話し方を変えてみる、ボディランゲージ意識して男性らしさを演出する、清潔感のある身だしなみを心がける、など。また、女性が好む会話や振る舞い方を研究し、実践することで、女性からの印象を良くすることもできるはずよ。

恋愛性的な繋がりは、時に厳しい現実を突きつけることもあるけれど、努力や工夫次第で状況を変えることができるわ。弱者男性たちには、自分を磨き、性的な魅力という武器を手に入れて、自信を持って女性アプローチしてほしいわね。

anond:20240525045104

正論いくら言ってもムダかと。

だけど不思議なことに、主観的幸福をみると、日本人男性の方が不幸になる。



弱者男性が救われると困る人たちが確かに存在します。

彼らは救済されそうになると残酷にも「この人たちは弱者男性ではない」などと言い出すのです。

2024-05-24

anond:20240523131406

仕事は楽じゃない」ってことをちゃんと分かってくれるだけでも、大分マシなんだよな…

この社会は、爽やかに努力」すればお金を沢山貰える程、お花畑じゃないし

たくさん稼ぐには、体を壊さなきゃいけなかったり、人を蹴落とさなければならなかったり、残酷人生を生きていかなければならない訳だよ…

ガキに同和教育してもあん意味ないし、むしろ逆効果だろ

差別されてきた人たちを罵倒するような大っぴらに使ってはいけない差別用語を授業で知ったら、それを嬉々として使うし

今どきスマホパソコン、なんならゲーム機ネット見れるから、そういう地域がどこかを調べてクラスメートが住んでる地域かを調べる

そしてその地域に住んでる奴に、特定地域に住む人間への差別用語をゲラゲラ笑いながら言ってイジメを行う

そういう事する様が簡単想像できてしま

ガキの残酷さと凶暴さを舐める

知的障害者を蔑む言葉(ガイジ)を普通にスラングとして使うような連中だぞ

2024-05-23

「実は〇〇(任意動物名前)は餌をくれるから人間に従っていたり好意的に振る舞っているだけで、別に人間自体が好きではない」って奴、理屈としては分かるけど、動物にすら夢をたせてくれない残酷発言だよね。

ホモ・サピエンス同族として認めて社会に入れて貰うのは諦めたとしても、他の動物からも好かれないなら何を拠り所に生きればいいんだよ。植物か?鉱物か?水に優しい言葉をかけ続ければいつかは答えてくれるのか?誰か俺を受け入れてくれよ。

anond:20240523184910

「現時点ではAIによる学習規制する法はなく完全に合法

この30文字にも満たない文章理解できない奴らに、AI診断メーカー区別がつく訳ないだろ。お前は残酷な奴だな。

中学時代に好きだった女子実家を巡る

この前GWに久しぶりに実家に帰ったのよ

かれこれ5年ぶりくらいか

仕事が忙しくて長期休暇も休日出勤があってなかなか帰れてなかった

実家って帰ってみると意外とやることがなくて暇なんだよな

そこで中学時代に好きだった女子実家でも巡るかと思って自転車で外出したんだ

まず近所の田中さん(仮名)の実家に行ってみたら、あの頃のままで感動した

中学時代もよく田中さん実家を見に来てたんだが、その頃の記憶がよみがえって懐かしい気持ちになった

2階の左側の部屋が田中さんの部屋なんだよなあとか考えながら15分ほど見物して次へ

次は高橋さん(仮名)の実家に行ったら、なんと別の家が建ってて表札も別の名前に変わってた

時の流れって残酷だなあと30年前のことを思い出したりしてた

そういえば高橋さんの家には雑種の犬がいたけどさすがに死んじゃったかな?

最後小林さん(仮名)の実家に行く

するとなんと小林さんの部屋に明かりがついている!

ひょっとして小林さんいるのか!?と思い、声がしないか耳を澄ませたり遠目に部屋を覗いたりしてみたけどわからなかった

こういうとき鉢合わせたりしたら運命的な出会いみたいでトントン拍子に結婚とかできるんだろうなあと思ったりした

そして帰路につく

仕事で忙しい日々の中で、青春時代に戻れるとてもエモい体験だった

今朝目が覚めた時になぜか思い出したのは、小学生ときに隣のクラス先生ハゲいじりをされていたなということ。

子どもルッキズム感覚は強烈で、止められなければ無限自分たちと異なるものを見つけては、からかい攻撃を始めてしまう。

動物的で残酷な生き物なんだよなぁ

2024-05-21

anond:20240521152238

チー牛ってだけで斬り捨てられる残酷世界

「チー牛ってだけで斬り捨てられる」のを「残酷」って言ってしまう辺り、必死悪人になろうとしても結局悪人になりきれない凡人感があって好きだよ。

anond:20240519040445

携帯じゃなくて使用許可しろ

斬り捨て御免の立場しろ

チー牛ってだけで斬り捨てられる残酷世界になればチー牛弱男も変わるだろうから

五十七番の目はまだ開かれたままで口もそうだった。

その小さな顔は苦痛の表情に歪んでいた。

しかし最も私に印象を残したのはその顔の白さだった。

以前は青白かったが、今では体を覆うシーツより少し薄黒い程度だ。

その小さな歪んだ顔を見つめるうちに、

台車で運び去られ解剖室の遺体安置台の上に放り出されるのを待つこの胸の悪くなるような遺棄物が「自然」死のひとつの例であるという事実

礼拝での祈りで願われるものひとつであるという事実が私を襲った。

そう、そうなのだ。私は思った。

これこそ二十年、三十年、四十年後に待ち受けているものなのだ

高齢になるまで生き延びた幸運な者の死に様なのだ

もちろん人は生きようと望む。死への恐怖によって生に留まるのだ。

しかしその時考えたように、今では私はあまり歳をとらずに暴力によって死ぬ方が良いと考えている。

人々は戦争の恐ろしさを語る。

しか一般的な病のどれかにでも残酷さで匹敵するような兵器人間によって発明されたことがあるだろうか?

1946年11月

貧しい者の死に様 ジョージ・オーウェル

https://open-shelf.appspot.com/HowThePoorDie/chapter1.html

2024-05-20

anond:20240520231059

愛子が生まれた時なんか日本中が「なんだ女か」ってすごいがっかりムードに包まれテレビでずっと「いかに女に価値はなく跡継ぎにふさわしくないか」を識者たちが語っていたもの

多感な時期にあれを見て育ったから将来子供なんかほしくないと切に思った

ハズレかハズレじゃないかのお披露目会とか残酷

anond:20240519131611

仕事できる男は有能だから家事育児もやれるんだよね。

仕事できない男は無能から収入も低いし家事育児もできないという残酷な話。

会社営業部で一番の稼ぎ頭もうまく仕事育児両立してるわ…。

ちなみに俺は無能自覚しているので子供はいらない。

2024-05-19

自然主義文学

国木田独歩氏の『源おじ』は、妻を二人目の出産で失い、残された子を水難で失い、一人で舟渡しを営みつつ老境に至るところを、ある乞食の子との縁があり、我が子と思うように世話するも、乞食からはさしたる恩も情も返されず、夢に出る内心では妻や実子に対する後ろめたさを抱えつつ、ついには乞食に去られ、舟も嵐で失い、生活にも仕事にも支えを失い、首を吊って死ぬという、救いのない話になっている。

だが、まさにこれこそ自然主義文学という感じもした。運命宿命からはみ出ようとする人間意志容赦なく飲み込む決定論世界観を感じさせる。

夏目漱石氏が言うところの「理想」を坂口安吾氏は「モラル」と呼んでいたが、それがないことに対する解釈の違いが興味深い。世間の潮流の移ろいに伴い、自然主義も興亡していったのであろう。

実はこれこれで、あなた金剛石を弁償するため、こんな無理をして、その無理が祟って、今でもこの通りだと、

逐一を述べ立てると先方の女は笑いながら、あの金剛石は練物ですよと云ったそうです。

それでおしまいです。

これは例のモーパッサン氏の作であります

最後の一句は大に振ったもので、定めてモーパッサン氏の大得意なところと思われます

軽薄な巴里社会真相はさもこうあるだろう穿ち得て妙だと手を拍ちたくなるかも知れません。

そこがこの作の理想のあるところで、そこがこの作の不愉快なところであります

よくせきの場合から細君が虚栄心を折って、田舎育ちの山出し女とまで成り下がって、何年の間か苦心の末、身に釣り合わぬ借金を奇麗に返したのは立派な心がけで立派な行動であるからして、

もしモーパッサン氏に一点の道義的同情があるならば、少くともこの細君の心行きを活かしてやらなければすまない訳でありましょう。

ところが奥さんのせっかくの丹精がいっこう活きておりません。

積極的にと云うと言い過ぎるかも知れぬけれども、暗に人から瞞されて、働かないでもすんだところを、無理に馬鹿気た働きをした事になっているから、

奥さんの実着な勤勉は、精神的にも、物質的にも何らの報酬モーパッサン氏もしくは読者から得る事ができないようになってしまます

同情を表してやりたくても馬鹿気ているから、表されないのです。

それと云うのは最後の一句があって、作者が妙に穿った軽薄な落ちを作ったからであります

この一句のために、モーパッサン氏は徳義心に富める天下の読者をして、適当なる目的物に同情を表する事ができないようにしてしまいました。

同情を表すべき善行をかきながら、同情を表してはならぬと禁じたのがこの作であります

いくら真相穿つにしても、善の理想をこう害しては、私には賛成できません。

文芸哲学的基礎 夏目漱石

https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/755_14963.html

愛くるしくて、心が優しくて、すべて美徳ばかりで悪さというものが何もない可憐少女が、

森のお婆さんの病気を見舞に行って、お婆さんに化けている狼にムシャムシャ食べられてしまう。

私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、

然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。

その余白の中にくりひろげられ、私の目に沁みる風景は、可憐少女がただ狼にムシャムシャ食べられているという残酷ないやらしいような風景ですが、

然し、それが私の心を打つ打ち方は、若干やりきれなくて切ないものではあるにしても、

決して、不潔とか、不透明というものではありません。

何か、氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ、であります

文学のふるさと 坂口安吾

https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/44919_23669.html

そこで私はこう思わずはいられぬのです。

まりモラルがない、とか、突き放す、ということ、それは文学として成立たないように思われるけれども、

我々の生きる道にはどうしてもそのようでなければならぬ崖があって、

そこでは、モラルがない、ということ自体が、モラルなのだ、と。

文学のふるさと 坂口安吾

https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/44919_23669.html

2024-05-18

anond:20240517191901

年齢ではねられてるだけだと思いますよ 

残酷現実だけど

2024-05-17

anond:20240517183817

ぼっち村でも読めよ。

素人が思い付きで農業をやるとどうなるかっていう残酷現実が描かれてるぞ。

   町子は令和元年12月頃は、最近若造は好かんちゃ、昔のごつなりてーという言動があって、令和6年2月12日に怪しいから縣人の自宅に直接確認しに行ったがベッドの上に枯れた

 悪魔のように寝ていて、話しかけると、 なんけ、とだけ言われた。会話にならない、強力に話しかけないと反応しない、敬一は夜間の勤務に行っており、2階の部屋はすっからかんで、配信使用している

   赤いパソコンが新しく設置されていて、右の部屋はすかすかだった。

    3階のままの残酷から検討すると、前野町1丁目一帯には人間性を具備する者が在住していない。 もう5年前にじゅりちゃんの、ねえちょっと酷過ぎない?という書き込みがあったがそれも

  ここ数年は失効している。

    この問題社会全体的な考察からすると、専門技術的に、評価見地、 拡声器で同じことばかりいうようになったとか、そもそも、6階のババア配信の内容を変えた。おぺちの劣化ぶりも酷い。

  数か月前から、 苦しいです、きついです、の繰り返し。都合が悪化しペチラボリモコンに支障が出るようになると黙ってツイートを5時間に停止し、寝ているため、その間に実施されている様々な

   装置駆動に対して機能しなくなる。 何かといえばうるせえ糞と言い始めるが、目上の人間にいうようなことではない。クソガキが。

2024-05-16

anond:20240516105235

スパチャ1000円くらいだと反応しないが1万以上だったら反応してくれたり残酷な選別は堂々と行われている

2024-05-15

黒沢清蛇の道』(1998年)

自分がやってしまたこと(例えそれがわずかなものでも)が確実に原因で起きてしまった不幸と、まったく自分に原因のない不幸とではどちらがより耐えがたいものだろうか。

前者は「あのとき自分がこうしていなかったら…」というような激しい後悔に苛まれるだろうし、後者は そのことの理不尽さの前でおのれの無力さをおもいしることだろう。

さて、その選択はとりあえず個人の手に委ねることにして、最初の問いの「不幸」を「恐怖」と置き換えてみよう。

[A]その人自身に起こるべくして起きた恐怖

[B]全く原因不明の恐怖

どちらがより怖いか。まあケースバイケースというか結局はその状況に立たされなければ答えは出ないだろうが話を続ける。

[A]の原因というのを、過去にはたらいた明らかに人道に反する行為、とより狭義のものとし、 それ以外を後者にいれるとすれば、一般的に「ホラー映画」と呼ばれているものはほぼ全てが後者を扱ったものだといえよう。

原因が呪いのヴィデオテープを見たということにしろ遺伝子操作に失敗して前代未聞のウィルス感染してしまたことにしろそれらはとくに人道に反するというほどものではなく、せいぜい無根拠禁忌を犯したという程度だ。

そして観客はその恐怖を、襲われている者に 感情移入同化してともに味わい、それから逃れるとホッとして、それからまたそいつに襲われて……、 で最終的には原因が解き明かされるなり逃げ切るなりで幕は下りる。作る側も、いかに観客を引き込ませるかを意図して作っているし、そこで描かれる恐怖というのはあくまで襲われる側から見たものだ。

ところで、[A]の恐怖を描いた映画がいまやほとんどないのは、非のある者がこうむる恐怖を因果応報・当然のものとしてみなし逆に追いつめていく方が主人公として描かれているかである

すなわち正当な復讐をする勧善懲悪物語となってしまう。当然それは「恐怖= 襲われる側への感情移入により抱くもの」の図式が成り立たないのは言うまでもない。

では[A]の恐怖が恐怖映画として成立する場合とはどのようなものであるか。

それは、執行される復讐方法が観客に感情移入など到底させないほどおぞましいものであるときである

観客を思考停止に陥れさせるほどの残酷もの。このとき、その恐怖はまさに恐怖そのものとしてスクリーンに映し出される。

黒沢清監督作品蛇の道』(1998年)はこのような映画である

いや、これだけではこの作品を ひどく矮小化していることになる。

この作品の恐怖は、あるひとつの極点に立ってしまった人間がとってしま行為の目をそむけずにはいられないような醜悪さが、これでもかこれでもかと露呈されていくことにある。

かといってそれは単に悪趣味とかたづけられるような類いのものでは断じてない。

それが、紛れもなく人間性質によるので、恐怖を通り越してとにかく正視しがたいのだ。

それでもひとはこの映画を見るというほとんど拷問のような行為をやめようとしないのは、その恐怖の果てにも救いがあるはずだと信じているからにほかならないのだが……。

特筆すべき役者は(やはり)哀川翔である

この映画での哀川はほぼ、人間醜悪さを次々と 引き出す媒体として存在している。またその媒体としての仕事ぶりの的確さは、この世界物理学法則を解明していく学習塾でのもうひとつの姿とも重なり、存在論的に否定しがたいものとなるのだ。 あえて例えるならばこの作品での哀川の存在は、ルー・リードの声の響きのようだ。優しさ/慈悲深さと、 その奥にある圧倒的強度をほこる底無しの得体の知れなさ、そしてかなり強引なのにもかかわらず 抗いきれない魅惑にも似た正しさ(のようなもの)を備えている。

ともあれ、是非多くの人に見てもらいたい作品である

いや、やはりできるだけ見ないほうがよい。レンタルビデオ屋のやくざものコーナーに、絶対的大凶」としてなにげなく陳列されているのが、 この作品存在としてしごくふさわしいものだとおもわれる。

ヴィデオ化にあたり、『修羅極道 蛇の道』と改題された。

(この文章1999年8月下旬ごろ書かれた。)

(2024年5月付記:リメイク版公開の報に触れ、四半世紀前にこのような文章をひっそり公開していたのを思い出したのでまたひっそりと匿名公開させていただきました。ニュアンスを変えない程度に改行等いじりましたが、死語である「ヴィデオ」」」云々の最終2行は削れませんでした。)

部屋の中に、虫が、いる!!!!!

(死骸を)拾いに、行かなきゃ

おぎゃあああああああ!!おぎゃああ!!おぎゃああああああ!!

嫌すぎる嫌すぎる脚がいっぱいあって黒い*みたいになってる気持ち悪い助けてーーーーーーーーー虫が死んだ!!!

ヒーーーーーーーー🫨🫨🫨🫨🛐🛐🛐🤣🤣🤢🤢🤢🤮🤮🤮

ちょほんま、チョホンマン、何を言ってるんだ、あーーーー無理無理無理無理サブイボまつりですぅーーーーー!!!

🐶ァァ~~~ムリですぅ〜〜〜😭😭😭😭

たすっ、助けて!!!!あーーーなんでこんなちっぽけな虫ごとき!!!イヤァーーーーーーーーーーーー!!!!🤯🤯🤯😇😇😇🫥🫥🫥🪦🪦🪦

ヒーーーーーーーーーーーーーほんまむりほんまむりほんまむりほんまむりサプライズ死骸マジで無理つらいつらいインセクトバイバイ魂飛んでいくわハピネスさようなら………………

あーーーこれは現実です!現実なんですねえーーー☝️☝️☝️なんでやねんほんま無情すぎるどうしてどうしてデスティニー泣きたくなるなるナイトメア

あわわのわ

うふふのふ

ウフフフフフフフフフフフこんなのどうってことない酷い人ね残酷運命無差別に振り分けてウフフフフフフフフフ怖くなんてない怖くなんてないわよホモ・サピエンスは常勝無敗、永遠なのよ、

2024-05-14

女は年齢次第だけど男は個体差がすべてだから本当に残酷すぎて可哀想になる

若い時にいい思いをしておばさんになったらモテなくなるみたいな共通体験がなくて、福山雅治吉沢亮なのかチー牛なのかという個体差がすべてで男同士は徹底的に体験が分断されてる

チー牛は「性的価値100だった女が加齢で性的価値20になってざまあw」みたいな話題が好きだけどお前の価値は生涯通じて0なんよ

福山雅治吉沢亮価値女性タレントのようには加齢で下がらないということに喜んでいるけど、ああいう男の価値は1000だから生涯通じて勝ち続けて、お前の価値は0かマイナスなんよ

2024-05-13

とあるアプリゲームの話

最初に言っておくが。私は誹謗中傷をするつもりは全くない。

ただ、作品を読んで「不快だ」と感じた気持ちを書き記したいだけだ。故に、その作品名や作者については記さない。

ただし、詳細は触れないが、物語簡単説明登場人物には触れるので、作品を読んだ事がある人なら分かるかもしれない。

(この記事がそこまで読まれるかはともかく)

だが、もし分かる方がいたら。見解をうかがいたいものだ。

件の作品は、集団自○を企てるサークルの話だった。SNSで知り合い、とある島に集う事になった彼等の群像劇…というか。

高校生社会人、様々な立場人物が登場するが、それぞれの動機には強弱があるらしく、その描写がわりと書かれていた人物と、ほとんどない人物がいた。

…というか。まず言わせてくれ。主人公的な男子高校生の行いが、まずアウト。自分告白してきた女子高校生乱暴するのだから


その場面(文章)は高速スキップした。見るに耐えないからだ。何故こんな場面を入れたのか。最初不快はここだった。

いや、不快云々より、普通に犯罪行為に該当すると思う。

いくら相手告白してきて、好意があったかもしれなくても、相手同意の無い行為犯罪しかない。


それを最初に「そうした行為を推奨する目的ではない」と断っていても、誰でも簡単インストールして読めてしまうようなゲームに入れた時点で問題があるだろう。


この作品に限らず、不快表現をするアプリゲームが多すぎる事にも辟易している。

総じて言えるのは、「ゲームを遊ぶ人への配慮不足」。文章にせよ、映像にせよ、目にした人がどんな気持ちになり得るのか。


全ての人への配慮が難しいとしても、せめてセンシティブ話題や、デリケートな内容を扱う時には、配慮や注意をする努力必要だと思う。その努力が、作品の中ではあまり感じられなかった。


作品テーマというか、作品を通じて言いたかった事が何なのか、よく分からない読後感も不快だった。


作者自身あとがきで「正解を書きたかったわけではない」というような事を書いていたが、扱うテーマが重たいものである以上、その書き方や提起の仕方には、もっと配慮必要であると感じた。


共感を呼びたいのか、投げ掛けたいだけなのか。描き方や配慮の浅い作品では、メッセージ性に欠ける。


現に、私はただただ「不快だ」という感想しか残っていない。作者や製作陣の頑張り…には申し訳ないが。


要は、中途半端なのだ。多くの登場人物を入れすぎて、一人一人の内情を想像する余地も少ない上、場合によっては理不尽に、残酷に命を奪われる人物もいる。


今、振り返ってみても、結局作品を通して何が言いたかったのか、よく分からないという一言で終わってしまう。


賛否両論が分かれるテーマはいくらでもあるが、あまり考えなしに投げ掛けるだけ、というのは無責任に思う。


(考えなしに、とは言ったが、作者の考えが全く無いわけではなく、確か設定資料?やら、あとがきやらに書いてあった気はするが、重さを感じない言葉だったので覚えていない)


他にも、人妻に接近し過ぎる独身男性や、グロテスク描写快楽殺人犯など、不快な要素は多々あったが。


申し訳ないが、二言申すなら、描写不足。配慮不足。これに尽きる。


人の生き死に、特に自ら望むような場面を描くのであれば、直接的な表現も含め、心理描写は本当に慎重に描くべきだろう。


敢えて軽いタッチで…という姿勢なら、描き方が浅すぎて伝わらないし、描く必然性が薄れる。


総じて、後味の悪い印象を覚えてしまった。ふと他の方の反応が気になり、レビューを見てみると、不自然な好評価コメントが並んでいた事に驚いた。


私の価値観押し付けるつもりはないが、この話はそうした次元コメント以前に、不快という感想が勝ってしまった。


残念ながら、不快と感じた事自体議論余地はない。私にとっては、何故この作品に高評価が付いているのか、といった事の方が疑問ではある。


これもこの作品に限った事ではないが、作品に何らかの共感や感動を覚えた人々の感性は、必ずしも共通する部分ばかりではない。


皆、自分に置き換えたり、単純に好きなキャラクターがいたから等、感想の抱き方も千差万別だ。至極当然だが。


しかし、昔から「名作」「素晴らしい作品だ」と言われる数多の物語において、多くの人々が共通して「良い」と感じる部分があるのも確かだ。故に名作は色褪せない。世代時代も越えて愛される。


ゲームに話を戻せば、私が生まれる以前のゲームにも、沢山の「名作」は存在する。


願わくば、そうした名作に浸り、感想を書きたいものだ。

2024-05-12

anond:20240510130125

女子校だったが全くそんなものはなかった イジメもなかったと思う

増田の言ってることが本当なら男は有害レベルで粗暴で残酷だな

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