はてなキーワード: 多義的とは
『モテたければ人として接しろ』というアドバイスはまちがい。正確には『個人として接しろ』 - 自意識高い系男子
これ読んで、日本語の「人」はpersonの意味とhumanの意味の両方があるんだな、と気付いた。
元増田は、暗黙に、人をperson、人間をhumanという区別をしていると思う。
ただ、日本語の「人」はどっちの意味でも使えるので、誤解が生じるような文脈で、
personの意味で人と言いたい場合は、個人や人格と言った方がよいのだと思う。
別の増田で、
・「人間扱い」とは、十把一絡げの「女性扱い」ではなく個人個人に合わせた扱いのことだよ派(抽象度を下げろ派)
・「人間扱い」とは、性差を意識した「女性扱い」ではなく男性と同じように/無性かのように扱うことだよ派(抽象度を上げろ派)
個人的には「人間扱い」といったら人間一般に適用できる後者を指すべきで、前者は「個人扱い」とでも呼ぶべきじゃないかと思うが
ってのがあるけど、まさに前者がperson、後者がhumanだと思う。
いずれにせよ、「人」は多義的なので、「個人」や「人格」と言い換えた方が正しく伝わる、というのはその通りだと思うけれど、
「人」にはpersonの意味もあるので、「人として扱う」という言い方もまちがいではないと思う。
実際、自分もpersonの意味で読んでいて、上述の記事を読むまで、その多義性に気付いていなかった。
さっき「誤解が生じるような文脈で」と書いたけれど、
個人的には、恋愛や人間関係についての話のなかででてくる「人として扱う」が「personとして扱う」以外の意味を持つとは思ってもみなかった。
https://twitter.com/taozikw/status/1774344519770849306
JR東日本の駅でこのポスターをみるたびに、この方は、我が子の出産ではなくて、妻の出産か我が子の誕生に駆けつけようとしているんでないの?と不思議なのですが・・・もしかしておじいさんになるところ?
このツイートのリプライや引用を見ると、「我が子の出産」と言えば「(話者の)子が(話者の)孫を産む」以外にあり得ないとする人々が多く見受けられる
しかし、以下の用例はおそらくごく自然に読める者が大多数であろう
男が子を産むことは2024年現在はあり得ないので、日本語話者は即座に「長男が産まれたとき」の意味を選択して理解できる
「我が父の出棺」といえば、大抵は父が喪主になって祖父や母を出棺する話ではなく父の遺体が出棺される話であろう
これと同様に、「〇〇の出産」も、文脈上明らかであれば〇〇が産まれることを指す場合は往々にしてある
というと、
で解釈する人はそれぞれそれなりにいると思われるし、話者が男性であれば間違いなく後者で解釈されるであろう
多義的であるので「我が子の出産」はコピーとして悪文ではあるかもしれないが、
文法・語法において「我が子が産まれる」という意味で使うのは間違いではない
[名](スル)
何故か言及してる人が少なくて、増田でもあんまり書かれてなかったから、唾つけとく的な意味で書く。
今回の映画は意図的に多義的に解釈できるように作ってあるし、ある種童話や寓話的な作品なので、物語の中に何を見出すかは人それぞれでいいというのが前提ではある。
でも、一つだけ言いたいのは、これ、明治維新以降の日本と太平洋戦争の話だよね??ってこと。
・石の積み木→大本営発表だよね?
・石積みません→人間宣言だよね?
ってこと。そんで世界が崩壊すると同時に戦争も終わる。なんか他にもあると思うけど。
そもそも現実パートは戦時中だしわざわざ何年かも説明されるし。
なんか詳しい説明は賢い人に任せる
大川隆法いわく「 この世において、テロリストといわれる人々の行動の多くは、『復讐の念』『憤りの念』『怒りの念』などによって支配されています。そして、『リベンジ(報復)として、多くの人々の血を流したい』と思っているのでしょう。ただ、この考えの底には、『神は生贄を求める』というような考えが横たわっているように、私には感じられます。
一方、『革命』という言葉も多義的に理解はされていますけれども、革命の本質は『自由の創設』です。その意味で、テロとはまったく違ったものだと私は考えています。(中略)革命というのは、『人々を一元的に支配してしまおうとする、あるいは、人々を隷従させ奴隷にしようと支配する力に対し、自由が花開くことを求めて、人々が立ち上がること』です 」
うる星やつらがリメイクされた。最高レベルのスタッフが惜しげもなく投入され、凄まじい金が動いている。
コンテンツとしては四十年の歴史を持っており、コスプレ文化を日本に根付かせることにも一役買った今作においては、OPのクオリティーが非常に高い。音楽、映像共にキャッチ―で高品質になっている。
改めてOPをマジマジと見ると、明らかにZ世代へと向けられたメッセージが込められている。例えば、ところどころ挟まれるゲームを模した表現。90年代に流行した携帯型ゲーム的な映像や、00年代前後のギャルゲー的表現など、これらは明確にZ世代に向けられた演出表現――表象であると言えるだろう。また、OP冒頭に登場するインベーダーゲームは本作『うる星やつら』と同じくして四十年前から根付き始めたコンテンツであり、Z世代の範疇からは少しずれるが、四十代から三十代の後半といったZ世代に対する境界世代に対しても強く働きかける演出となっている。
同時に、SNSやマッチングアプリといった、十代二十代のZ世代若年層をも今作のOPは対象にしており、概してZ世代を対象にした演出が行われていることは明らかである。
何でこんなことを書き始めたかと言えば、公式アカウントがyoutubeにアップロードしているノンクレジットOP映像の、01:07~01:08に流れる、『地球儀』に関する表現が個人的に刺さりまくったからである。ノスタルジアで心がバッキバキになった。
本テキストにおいては、以降この『地球儀』に関するたった一秒間の演出に焦点を当て、記述していく。
『地球儀』をご存知であろうか? Z世代ならば当然知っているであろう、公園の遊具である。
そして、この遊具は現在公園には存在していない。何故なら遊具で遊んでいる子供たちに重大事故が多発したため、危険と見做され撤去されたからである。時流としては当然の対応と言えるだろう。この遊具で遊んだことのある人々は多いであろうが、遊具の使用中に大きなスリルを経験する人々も多かったことと思う。つまり、この遊具は根本的に危険なのである。
それでも、この遊具に関する良い思い出を持っている人々はZ世代を中心に多いことと思われる。明らかに、今作のOPはそのようなZ世代の人々の思い出に働きかける構成となっている。ノスタルジアに浸ることのできる良い演出である。
地球儀とは、つまり今喪われつつある一つの『世界』の喩えであると言える。
本OPにおいては、恐らく主人公の諸星あたるがこの地球儀の内側に引きこもる形で存在しており、その地球儀をラムが外側で浮遊しつつぐるぐると高速回転させている。その様子が諸星あたるの主観視点によって描写されている。そして、ラムは諸星あたるの表情を見てか、ニコリと微笑むのである。(あまりにも高速で回転する地球儀の中心に座り込む、主人公の怯えの表情を喜びの表情と錯覚して、ラムは笑ったのであろうと思われる。)たった一秒間の映像であるが、この一秒間にはOP演出家の粋が籠っている気がしてならない。
まず、節冒頭で書いた通り、この地球儀は、今喪われつつある(撤去されつつある)世界を表象していると言えそうである。かつては子供たちの間で楽しまれ、親しまれていたものの、今や危険視され排除されていく何かが、この地球儀には表象されている。
また、地球儀というものは当然ながら球形をしており、地球という我々にとっての世界を表象していると同時に、緩やかに我々の意識世界や内的世界を表象しているとも言える。我々にとって、あくまで世界は手の届く範囲のものでしかない。我々は、日本にいながらにして地球の裏側にあるブラジルの人々の生活をつぶさに見て取ることは、殆どできない。つまり、我々の世界は場合によっては手の届く範囲――半径にして凡そ一メートル弱の球形の世界において完結しているとも言えるのである。つまり、この地球儀は、我々の手の届く範囲での世界――我々の(そして諸星あたるの)〈閉じた〉内的意識や内的世界を表象しているとも言えるのではないだろうか。
つまり、この地球儀は、様々な要素を多義的に表象していると言える。喪われつつある愉しかった頃の思い出、完結した内的世界――などなど。この、『地球儀』は非常に表象論的に優れたイコンであると私は思う。この『地球儀』に目をつけたOP演出家に賛辞を贈りたい。
そして、同時にこの地球儀は、「内側にいる人間だけで遊ぶことはできず、外側にいる他者に依存して初めて楽しさを感じることができるもの」としての側面を表象している。つまり、この場合には、ある程度間接的ではあるが、他者がいなければ成り立つことのない心情、恋心の存在が、緩やかに表象されていると言っていいかもしれない。そして、その地球儀は、空中を浮遊する超常的存在であるラムによって、とてもではないが緩やか、とは言えない超高速で回転させられる。そして、ラムは喜色一面に微笑むのである。ラムにしかできない形で諸星あたるの世界が回転しているのだ。このように回転する『地球儀』は、諸星あたるのジェットコースター的に起伏に富んだ生活や人間関係を、そして、それらを含む彼の内的意識を表象していると言える――そして、遠からず諸星あたるの心中に芽生えるかもしれない感情にも、その表象は緩やかに繋がっていると言えるのかもしれない。
世界が回転する――これもまた、一つの表象であると言える。ラムによって諸星あたるの世界は駆動し、心は動くのである。怯えと、スリルと、説明不能な感情。それらの心は、ラムの指先によって躍動感もあらわに駆動するのである
これが、ノスタルジアでなければ何であると言うのか。もうバッキバキである。心が。
を書いた増田です
sds-page 一意性が担保されてればリアルと結び付ける本人証明は不要かな。匿名性も実現できるし。ガス代も登録時に100回くらい発言できるだけ配布すればあとは自身の発言NFTを売って稼ぐとかでもいい
少し考えてみた感じ、そのプラットフォーム自体に本人証明が無くても、発言した本人が任意で他のプラットフォームと紐づけて「誰がそれを言ったか(議論においては当面重要な要素だと俺は思ってる)」が分かるようになれば俺としてはオッケーな気もするので、ちょっと検討してみるよ
まあとにかく検討はする
発言NFTで稼ぐっていうのも最初は「ん?」ってなったんだけど、やりようによっては書籍とかでクローズドに主張を展開して稼がれるよりよっぽど健全かもしれないし、人も集まるかもな
正直個人的にはNFTまわりと元記事の要件絡めると(本人証明無いとしても)実現可能性が全く見えなくてすげえハードル上がるんだけど、要件は絶対じゃないし、面白そうだしやるよ
cinefuk 議論と言いつつチーム戦でワーワーやって、荒らし行為や恫喝・脅迫も出て「皆が立ち去ったあと最後まで立っていたものが勝利者」みたいなBBSが大多数。議論には公平な調停者・司会者が必要で、そのモデルは裁判所では
個人的にはプラットフォームの作り方・在り方次第かなと思うので、細っちょろい腕の見せどころ
法曹とかの専門家じゃないので間違ってたら本当に申し訳ないしボロクソに指摘して欲しいんだけど、裁判所は議論の場として参考になるところとならないところがあって、一概にモデルにはできない
なんかは参考になる
なんかは参考にならない
一応補足しとくと、裁判所を悪く言ってるわけじゃないし、参考にならないところも「じゃあどうしよう」って考える材料にする
公平な調停者・司会者を獲得するには、まず「公平な調停者・司会者とは?」の議論をちゃんとするところから始めなきゃいけないと思う
それは議論の場を作った次のフェーズの話になるので、現状のフェーズでは個人的には不要
そもそもモデルって言葉自体がすげえ多義的だから、俺の解釈違いで「参考にできるところだけ参考にすればいいんだよ」っていう話なら承知した
俺みたいな色んな方面で素人な奴が一人で作るより、色んな人がそれぞれの立場で各々の考える「みんなに議論を促す場」を作って欲しいと思ってずっと増田に書いてる
なんでそんな議論させたいの?みたいな話は↑の元記事の方に書いてるので読んで欲しい
そんでツッコミどころあったら教えて欲しい
以前手紙を書きながら、この速度感いいな?!となったので懲りずに書いてます。よっぽど気が向いたら読んでください。
.
.
ラインの既読機能が苦手です。いつ読んだかとか読んでないとか、、手紙はそういうのないから気が楽だな。読まなくてもいいし、読まれないかもと思うと、不思議と素直になれる。
.
.
逆に私は_さんのどこが好きなのか考えて、昔の日記もぜんぶ読み返して、結論は、見た目でした。
今だから言いますが、どタイプです。めちゃくちゃ好み。そそられる。いちばん好きな部位は、、全身360゜ナイスだけど、、ふくらはぎかな。すっごくきれい!
なんて美しい人なんだろう。好きすぎる。私は_さんにつりあう人間ではない、できる限り魅力的に映りたい!でもこの人、何を考えてるんだろう?
_月に初めて話したときから、私の原動力は性欲でした。言いすぎか。でも恋って性欲じゃないの?
何を考えているの?と問うのをやめてみました。立ち入らないことにしよう。わからないってことを尊重しよう。別々の場所ですごして異なる受容体をもつ他人同士が、知り合う、わかりあうなんてそもそも無理なんだ。
.
.
結果として、_さんの価値観をないがしろにする行動に出たことを、後悔しています。
ごめんなさい。
セフレになりたいわけではなかったんです。
でもさわりたい。内面にふれることができないならせめて。_さんはセックスに愛が必要だと言う。それ性欲のマイルドなやつじゃないの?恋と愛は何が違うの?そんな、誰に対しても欲情するわけじゃない。他の誰でもなく、_さんに、さわりたい。けどさわれない。私は_さんをなにひとつ知ることができない。頭痛も快感もわかりあえない。だけどこれ以上立ち入った話をしたらきっと拒絶される。。
.
.
立ち入らないということは、受け身でいるということです。受け身ばかりでは、勝てません。
いつしか、私は負けているんだ、1位には程遠いんだ、最後に選ばれるのは私ではない、、妄想からの執着、不安と嫉妬が全身に充満していました。なにひとつ現実ではなく、ただの思い込みで、本人に訊けばはっきりすることなのに。
私は自分の想像力を全く制御できません。爆発的な負の感情。疲れた。腫瘍でしかない。切り落としたい。
だから_さんが荒療治をさずけてくれたことに、とても感謝しています。
助かった。
醒めました。
勝負と考える時点で何かがずれていることに、やっと気づきました。_さんは標的、獲物だったのか。手に入れたら終了?私は_さんに向き合っていない。自分勝手に設定したゴールに押し込もうとしているだけだ。
.
.
私は_さんをどう思ってるのか?
どういう関係になりたいのか?
.
あらためて、打算を抜きにして、考えました。打算を抜くのになかなかの時間とエネルギーを費やしました。
もし目の前にあなたがいたら、気持ちをどんな言葉で伝えるだろう。
「好き」とは言えるけど、「つきあいたい」とは言えるかな。
友達でも恋人でもない、そんな categorizeできるような、一般的な関係にはなれない気がする。
でも、絶縁はやだな。
さみしいな。
そう思って手紙を書きました。読んだ?読んだからラインくれたのかな。
ありがとうね。
実はね、あの日、もうブロックされてると思ってて、どうせ届かないし好き放題言っちゃえ〜てなったの笑
うれしかった。
初めて、コミュニケーションがきちんと一往復した感じがした。
ということはこの_ヶ月間の私は、一人相撲だったのか?_さんはずーーっと隣にいてくれて、きいてもないのに始まる自分語りに静かに耳を傾けてくれていたのに、私は見栄と性欲と妄想に振り回されていただけだったのか?私は一体なにと戦っていたのだ、to be continued...
これくらいにしとこう。もう十分伝わったからね。
.
.
出会う前と後で、明らかに異なっています。いろいろな事柄が。事柄に対する私の反応が。
当事者としての人生に直面したというのでしょうか?役割を演じるのではなく、目標から逆算するのでもなく、、
今までの私にとって人間関係は利害と役割だったので、この構造はとても新鮮で、むずかしいです。
とてもchallengingだな、と思います。
.
.
自意識過剰で保守的で不器用で、めんどくさい・まわりくどい・しんきくさいの三位一体みたいな私につきあってくれて、本当にありがとう。
あらためて、_さんのことが好きです。外見だけじゃないです。この場合は_さんの私に対する態度が好きという意味。
やさしい人。
臆病で、極端で、疑い深くなることが恋なら、もう、やめたいな。
.
.
例えば「ビーチでセクシーな水着を着る」という行為には、少なからず「性的な含意」があるのだろうが、かと言って多くの人は別に「誘ってる」わけではないわけで。「エロ」とか「性的」とかいう多義的な言葉では語りきれない微妙な差異があるということでしょう。
勘違いしないでもらいたいけど、別にプライベートな場面で着るような「セクシーな水着」で公的な仕事に臨んでいいとは言ってないよ。(まあ、件の「乳揺れ」とやらは、見た限り「セクシーな水着」よりも遥かに穏当な表現だと思うけどね。)
あの程度のものを「性的対象物」つまり「ポルノ」呼ばわりするような公開質問状の内容は、どう考えたって擁護不可能ですよね。
その上、この期に及んでVtuber側を叩く「その他大勢」の言い分もあまりにも酷い。それはフェミ議連の直接の責任ではないにしろ、見ての通り、二次元表現やアバター表現によってジェンダーやセクシュアリティ、アイデンティティを表現する文化に対する差別・偏見というのは今も苛烈に残っているわけです。そこに何かしらの不満があるのだとしても、結果としてヘイトを煽りかねない形で雑な思いつきの批判を公開するべきではなかった、という批判も有り得ますよね。喩えるなら、BLMに不満があるのだとしても、黒人差別の文脈を汲むことなく一方的な断罪に終始する限り、それ自体が黒人差別に加担する結果になるのと同じで。