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『モテたければ人として接しろ』というアドバイスはまちがい。正確には『個人として接しろ』 - 自意識高い系男子
これ読んで、日本語の「人」はpersonの意味とhumanの意味の両方があるんだな、と気付いた。
元増田は、暗黙に、人をperson、人間をhumanという区別をしていると思う。
ただ、日本語の「人」はどっちの意味でも使えるので、誤解が生じるような文脈で、
personの意味で人と言いたい場合は、個人や人格と言った方がよいのだと思う。
別の増田で、
・「人間扱い」とは、十把一絡げの「女性扱い」ではなく個人個人に合わせた扱いのことだよ派(抽象度を下げろ派)
・「人間扱い」とは、性差を意識した「女性扱い」ではなく男性と同じように/無性かのように扱うことだよ派(抽象度を上げろ派)
個人的には「人間扱い」といったら人間一般に適用できる後者を指すべきで、前者は「個人扱い」とでも呼ぶべきじゃないかと思うが
ってのがあるけど、まさに前者がperson、後者がhumanだと思う。
いずれにせよ、「人」は多義的なので、「個人」や「人格」と言い換えた方が正しく伝わる、というのはその通りだと思うけれど、
「人」にはpersonの意味もあるので、「人として扱う」という言い方もまちがいではないと思う。
実際、自分もpersonの意味で読んでいて、上述の記事を読むまで、その多義性に気付いていなかった。
さっき「誤解が生じるような文脈で」と書いたけれど、
個人的には、恋愛や人間関係についての話のなかででてくる「人として扱う」が「personとして扱う」以外の意味を持つとは思ってもみなかった。
そもそも日本語の言葉として一つしかないものを、漢字の都合で漢字を使い分けてるだけ。
「普段、仕事で小説を読んでいます」と書いてたみたいだけど、明治時代の小説とか読んでりゃ漢字の使い分けなんて決まりはなくわりと自由にやってたことくらい知ってそうなもんだが
はてブのみなさんのなかに複数、「記事の指摘内容」自体は正しいものと鵜呑みにされている人がいることにやや危機感を覚えたので、逐一検証していきます。
準拠する用字用語ルールブックは、記事内では残念ながら指定されていないので、現物を所持しているという点で増田に都合の良い、2016年3月24日発行の『記者ハンドブック 第13版第1刷』を使用します。
なお、2022年3月に「記者ハンドブック」は第14版が出ているのですが、スタイルガイドは別に新しいものが日本語として正しいといった性質のものではなく、またたかが6年で様変わりするようなものでもないので、気にしないことにします。
厳密な話をするなら、増刷のたびに微妙な改訂があったりしますしね。
なお敬語や文法等の指摘は、表記集である記者ハンドブックの範囲外だと思われるので無視します。
また、面倒なので「【誤字】_カテゴリ別」のシートのみを対象にします。
誤用第1位として挙げられていますが、1位になるのも当然で偽ルールです。記者ハンドブックでは「比喩表現には「例え」、仮定表現には「たとえ」、「喩え/譬え/仮令/縦令」は常用漢字表外のため使用禁止」です。
これは正しいルールですが一方で記者ハンドブックには「「まぜご飯」など書き分けが難しい場合には平仮名書き」とあります。必ずしも正誤判定を行えるルールではありません。
例えば
などは、「調べて区別を付ける」ことは可能だが、調べるまでは「混ざっていて区別のつかない」状態を描写しています。
判定は難しいですが、記者ハンドブックは「混じる」の用例に「異物が混じる」を挙げていることも踏まえると、誤りとは言えません。
書き分け基準は正しいですが、『亘る』は常用漢字表外なので『わたる』と平仮名で書きます。
同上。『穿く』は常用漢字表外なので『はく』と平仮名で書きます。
同上。『窺う』は常用漢字表外なので『うかがう』と平仮名で書きます。
記者ハンドブックには「「料理を皿にのせる」など使い分けに迷う場合は平仮名書き」とあります。用例を見ても「猫を膝に乗せる」/ 「家畜を列車に載せる」などは違いがわかりにくいです。
の2点が揃えば「乗る」、2点に反すれば「載る」、片方だけ満たせば書き分け困難として「のる」とするのが妥当に思えます。
そうすると、
は「載る」ではなく「のる」に校正するのが正しいでしょう。
「押さえる」は「物理的圧迫」だけでなく、「確保する」「つかむ」も含みます。そうしないと「要点を押さえる」などが説明できません。
また「物理的圧迫」でも例外として柔道用語では「抑え込み」です。
要約すれば、「抑圧・弾圧・柔道」が「抑える」、それ以外が「押さえる」とするのが正確でしょう。
また、
- 持って帰りたい気持ちを抑えて
は「抑制」なので間違っていません。
これも記者ハンドブックに「使い分けに迷う場合は平仮名書き」とあるようにはっきりとは分けられません。
ただし、少なくとも誤用指摘をされている
- エアコンの効いた
等に関しては記者ハンドブック中に「冷・暖房が効いている」があることから、誤用指摘のほうが間違っていると言えるでしょう。
「沁」は常用漢字表外であり使用禁止。すべて「染みる」で問題ないのが記者ハンドブックルールです。
記者ハンドブックルールでは「敵う」/「適う」を区別しませんが、そもそもどちらも常用漢字表内の読み方に「かなう」がありません。平仮名書きが正しいです。
記者ハンドブックルールでは「散りばめる」/「鏤める」はどちらも誤用ではありませんが、「鏤」は常用漢字外なので使用禁止です。
表記統一のルールとしてひらがなで「ちりばめる」と書くのが正しいルールになっています。
「牡蠣」/「柿」は同音異義語です。牡蠣を柿と書いたら誤りです。しかし「かく」ならば、絵に対しても書に対しても両方に使える、ただの多義語です。「書く」「描く」という2単語があるわけではありません。
多義語も書き分けを行うことで、意味確定が楽になり読みやすい文章にはなります。しかし、「絵を書く」と書いたところで日本語として間違いにはなりません。あくまでプラスワンの基準と考えるのが妥当でしょう。
また、「書く / 描く」の書き分けルールくらい、多くの現代日本人の共通認識になっていれば、強い理由がない限り逸脱しないほうが良いといえるでしょうが、
でも「湧く / 沸く」の違いならどうでしょうか。そんなもの日本人のほとんどは意識していませんし、言語感覚は人それぞれで多様です。何かしらの書き分けを行うことによる読みやすさの向上は、仮にあっても微々たるものでしかありません。
共同通信の配信文などはその性質上個性を抑えた画一の文体が好まれますから、ルールを極めて細かいところまで定めることに意味が出てきますが
一方でオモコロのような個性が売りの媒体では、時にはルールから逸脱することもあるライターの言語感覚を反映させて、自由に書き分けることの方がよっぽど重要です。
記事の冒頭、
にマジレスすると「メディアの違いを理解せよ」ってやつですね。
そして、フォーマルな画一文の校正として見ても、『オモコロを校正する』は、準拠するスタイルガイド・用字用語集・辞書・文法書が指定されていないこと、および常用漢字表外の漢字の使用について明らかに無頓着であることがかなり気にかかります。
記事の著者は「普段、仕事で小説を読んでいます」と主張していますが、この人に仕事で校正してほしくないな……というのが本音です。
「エロい」は多義語。あらゆる「エロい」が性生活をサポートするための商品ではない。
人がシースルーを着る時、語彙力のない人は「エロいから好き」と表現したくなるかもしれないが、だからといって「誘ってる」と言われたら怒るだろう。
「見せパン」や「つけ乳首」のような過激なファッションが流行ったこともあるが、それらも「下品だ」と顔をしかめられたことはあっても、「性的消費だ」「性差別だ」とレッテルを貼られたことはないだろう。
むしろ、なぜ自身の身体以外によって自らのジェンダーを表現することを、ファッションの在り方として認めないのか。なぜそうしたファッションの文化を持つ人々へ訴求する「アイコン」の存在を認めないのか。SNSで「絵師」が人気を集めるのは、彼らが「アイコン」だからだ。
こうしたイラストを「オシャレ」「かっこいい」とする感覚は、ファッションモデルを見て「オシャレ」「かっこいい」とする感覚と同じもの。ただ「ファッション」とは何かという部分で異なる文化を持つだけ。
「誰にも邪魔されずこっそりエロ漫画を読む自由」という「性的営みの自由」は、対人性愛者が対人セックスを行うのと同様に守られなければいけない。
「多少なりとも性的文脈を汲んだジェンダーエクスプレッションをファッションとして楽しむ自由」という「文化的営みの自由」は、物理的身体をベースにジェンダーエクスプレッションを行う人々と同様に守られなければいけない。
「そうしたマイノリティ達が受けている差別を明らかにするために、敢えてゾーニングを破ることによって人々を挑発し、怒らせる」という「政治的営みの自由」は、あいちトリエンナーレで行われた「表現の不自由展」などと同様に守られなければいけない。
その上で、それらが現象としては重なっていたり、区別が難しい現実も丁寧に語っていこう。「見せパン」や「つけ乳首」のような過激なファッションは、少なからずの政治性が見出されたからこそ「かっこいい」と認識された側面はある。
ittoto さんのがバカらしく思えるのは、そのコメントが保証してるのは ❷ の権利としての自由だから。
憲法で保証される表現の自由がある。その意味で政治的発言は自由。
元増田が主張してるのは ❶ の倫理について。作家の倫理として政治的発言はしないでほしいという要請だ。
❷ の権利としての自由を主張したところで、❶ の倫理上の要請を否定した事にはならない。
作家は政治的発言をすべきでない & 嫌われようとも表現する自由はある、は両立する。
元増田は新しい倫理を定義しようとした。コメントは権利問題にすり替えることで誤魔化した。そしてそのコメントが人気になる。モラルのあり方は肯定も否定もされず、中ブラリンになる。
質問するシーンというのは
2.意図が読み取れなかった時
3.変更して欲しい時
5.承認するかどうか迷ってる時
1の時は言葉尻が変わる、「◯◯について詳しくないんですが」あたりが付くだろ
2の時はコードが悪いわけだから、質問じゃなくて「意図が読み取れなかった」わけだから悪いコードだ、「修正しました」というのは「修正したけどこれなら意図わかるか?」だ
3は質問ではなく指摘
4も表現が変わるはず、「AとBがあると思いますが、Aにした理由は何ですか?」
→ 特に理由もなく、Bのほうが良いと思ったら「修正しました」となる
→ Aにした理由があれば、回答が返ってくる
5はただの圧、上司による「やりなおし、理由は自分で考えろ」と同じ
確固たる理由があれば返ってくるが、そうじゃない場合はよりリファクタリングをした上で理由をつけて返したくなるので「修正しました」となる
つまり「純粋に質問ですが、どうして〜〜なんですか?」なんていう純粋な質問は基本存在しない
1.「◯◯について詳しくないんですが」
4.AとBがあると思いますが、Aにした理由はなんですか?私は優劣つけられないんですが
5.この部分について◯◯の懸念がありますが、〜〜とした理由か修正をお願いします
本当はアクシア・クローネの今回の活動休止のお知らせ動画後半部分・ラップ動画に対する怒りと悲しみを理路整然と正論パンチで書いてやろうと思ってたけど、面倒くさくなったからやめた。増田なんてチラ裏と一緒なのに、なんで頭使って書かないといけないんだろう。もう疲れたよ。
以下に書いてるのは休止動画の後半とラップ動画に対する愚痴で、動画前半で触れてる誹謗中傷については迷惑行為をする人間が悪いと思ってるのであしからず。
私はアクシアの配信でコメントしたこともなければTwitterも鍵垢で、アクシアの視界に入ったことは無いはずだった。だけどアクシアのガワをかわいいかわいいって褒めたり、ゲームに興味はないけどアクシアが楽しそうに遊んでるのを目当てに配信を見てたりしていた。アクシアにとってはそういった行為も不快だったんだろうな。私がアクシアに直接言わなくても。
夢女子も腐女子も好きじゃないって言われて、好きじゃない=嫌いじゃないって受け取れると思ってんの???あんな語気が強い動画の内の一言なんだから好きじゃない=嫌いだよね。今まで好きだった人から突然嫌いって突き放されてショックを受けない方が無理だろうが。あの動画を見た時の悲しさは多分外野は察してくれないんだろうけど。
アクシアは女オタクのこと今までずっと気持ち悪いって思ってたんだろうな。化け物扱いされて奇行種だの寄生虫だの蚊だの言われたら凹むよ。どっちが誹謗中傷なんだろうね。私はアクシアに酷い言葉を投げたことはないけど、今アクシアからの言葉で傷付いてるよ。
ここまで読んだ人の中には「アクシアが言ってんのは誹謗中傷した害悪ファンなのに被害妄想激しすぎ」とか「出た母親面!w」なんて言う人もいそうだけど、そもそもアクシアに誹謗中傷していたのがアクシエイドかどうかなんて誰も分からない。ファンを装ったアンチなんてこの世に五万といるし。特定の害悪ファンではなくファン全体を憎んでるのかなってそう受け取ってしまうくらいの強い言葉の羅列だったね。私はそう思ったよ。
推しに対してかわいいって言うのが怖くなった。私はアクシアだけのファンじゃないしむしろ本命は別なんだけど、推しの新規供給を受けて「かわいい!」って言った瞬間「私のこういうところがアクシアを不快にさせたんた……」って凹んでしまった。
女が言うかわいいなんて「好き」でもあり「美味しい」でもあり「キモい」でもある便利な多義語なのに、かわいいって言葉が地雷になりそう。なんならトラウマになってる。タイトルのPTSDはそういうこと。
アクシアが出した動画で傷付いてる私はアクシアが一掃したかった化け物なのかもしれない。これが化け物が受けるべき罰だったのかもしれない
けど多分、本物の化け物はノーダメージで今日もアクシアのことをかわいいって言ってるよ。本物の化け物とあの頭の悪いクソガキラップでファンになった精神年齢低そうなファンしか残ってない復帰後のコメ欄が楽しみだな〜 おわり
「足して二で割ったような」という言い回しがある
これに対し「足して二で割らない」という亜種の言い回しがされることもある
AとBを足して二で割ったような、と言うときはAとBの両方の要素を併せ持つという意味合いだろう
このとき二で割っているからAとBそれぞれの要素が半分に減っているという数学的連想がなされるのかも
だからこそ足して二で割らないという言い方は、AとBの両方の要素を併せ持つがそれぞれの要素は強く残ったままというのを強調した言い方なのだろう
しかし、足して二で割ろうが割らなかろうが濃度という観点では結局等しいんだよな
足して二で割らないというのは要素の絶対量を重視した言い回しと言える
この前ゆる言語学ラジオで「1の多義性」という話題でトークがされていたのを思い出す
数量としての1と割合の総量としての1の二種類があるという話だった
足して二で割らないという表現は、強調表現として言いたいことはわかるが割合の総量としての1をわかってない言い回しだなと思った
小学生が算数を学ぶとき、割合の総量としての1でつまづきやすいという話もされていた
人間という生物の脳が直感的に判断できる数の認知の限界を感じさせる
書いてから思ったが、足されるものそれぞれの量が同じという前提で考えていた
必ずしもそうではないという気もしてきたな
であれば話が変わってくるか
AとBを足して二で割ったような、というときAとBはだいたい同じレベルのものなのではないか
ドラゴンボールとデスノートを足して二で割ったような漫画という言い方には違和感はそんなにないはず
ドラゴンボールと(なんらかの10週打ち切り漫画)を足して二で割ったような漫画という言い方はあんまりしないか?ちょっとこれは自信無いが
悟空とベジータを足して二で割ったようなキャラは言い回しとして違和感ない
フリーザと戦闘力5のおっさんを足して二で割ったようなキャラは……そういうふうには言わんわな
しかしここで気付く
この言い回しは、足して二で割った結果何かを算出しているのではない
算出されたとされる何かがまずあって、比喩として足して二で割っている
この気づきに何らかのヒントがあるか