「抗がん剤」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 抗がん剤とは

2009-09-10

http://anond.hatelabo.jp/20090910100351

なんだろう、この夫の人に、あまり末期の肺ガンって印象を受けない。

うちのお祖父ちゃんも肺ガンでしたが、臨終の時には管が付いていて痛々しかったし、まともに喋る事も難しかった。

ガンの症状といっても、人によって違うものかもしれない。

実は抗がん剤副作用の方が酷いのだろうか・・・

とか、読んでいてつらつらと考えてしまった。

医者様に「もう眠らせてあげてください」と、お願いしたかったのを思い出す。

2009-03-28

データは遺産として相続できるんだろうか

先月亡くなった父は、ネットショップ経営していた。

10数年前に務めていた会社がなくなってしまい、再就職も結局決まらず、

いろいろ試行錯誤の末に輸入雑貨ヤフオクでぽつぽつ売り始めた。

だんだんとペースをつかみ、実績を積んでヤフオクにストア出店し、

自社サイトも開設し、楽天ヤフーショッピングにも店を開いた。

そんな矢先にガンが見つかり、胃とか胆嚢とかを取った。

その後、経口の抗がん剤を投与しながら、それまで以上にガンガン仕事

していたんだけど、手術後1年の検査で腹膜に転移していることがわかって、

通院で抗がん剤を投与しながら、それでも仕事を続けてた。

本人も医者ギリギリまでずいぶんがんばったけど、結局やっぱりだめだった。


仕事については母と私で引き継いでやっていくことになったんだけど、

借りてる店の名義変更とか取引銀行口座とかカード決済代行の契約とか、

いろいろと超めんどくさいことを1ヵ月近くかかって捌き、

最後に一番めんどくさそうだったヤフー電話した。


細かいところは忘れたけど、オークションカスタマー窓口では

ビジネスID管理者変更手続きをすれば、既存のストアをそのまま使える」

というような説明があった。(自分はそう理解した。) 

でも、その後別の部署から電話が来て

個人事業主の場合は他の人がIDを引き継ぐことができないので、一旦解約する形になる」

というようなことを言われた。

だからもう一度カスタマー窓口に電話して、手続きを申請しなくてはならないそうだ。



私が一番恐れていたのは、これまで父が作ってきたストアの商品ページや取引評価が

全て"消えてなくなってしまう"ことだ。



確かに、本人以外の人間がその人のIDを使うことは規約違反(まぁ、今その状態なんですが)。

だけど、父の"作ったもの"をその妻や子が相続することはできないんだろうか。

店舗で取り扱う商品について、まだまだ勉強しなくてはならない私たちにとって、

父がヤフオクストアに作ったたくさんの商品ページはマジでプライスレス財産だ。(ストア出店はページ保管できるよ)

それに、父が数年かかって積み上げてきた数千の評価が一瞬で消えてしまうのは。。。。さみしい。。。くやしい。


そう思ったら何だかガックリきてしまって、まだ窓口に再度の問い合わせはしていない。

だから、ほんとうに全部消えてしまうのか、それとも何とか引き継げる手だてがあるのか、

実際どうなるのかまだ正確にはわかっていない。

評価については遺族の感情論なのかもしれないけど、少なくとも商品ページは説明文・写真とも

父の作った著作物という面もあるんじゃないかと思う。法律に詳しいわけじゃないけど。

最悪、データをまとめてダウンロードするくらいのことはしたい。やっぱ、手作業でコピペしなきゃいかんのかな。


ああ。

なんとか良い方向で解決できればよいのだが。

月曜。 電話しなきゃ。

2008-10-02

個人的な経験から、覚悟が必要なのではと思います

http://anond.hatelabo.jp/20081001222029

増田さんへ

33歳、6ヶ月の女の子の父です。

非常に個人的な意見となりますが、書かせていただきます

誰かも書いていますが、この手のことは考えても答えは出ない気がします。

そして、必要なのは覚悟とおもいます。

たぶん、誰かに肩をポンと押してもらうか、自ら腹をくくるかのどちらかではないでしょうか。

女性子供を作ることができる期間、チャンスには限りがあります。

要は、時間の余裕なんて無い”かも”しれないのです。

男にはまったくもって理解不能でしょうけど。わたしも自ら経験するまではまったくの無知でした。

子供なんて、いくらでも、すぐにできてしまうものとタカをくくっていたのです。

ですが、子供が生まれるということは、本当に奇跡みたいなことかもしれないのです。

そして、子供が育っていくということも。

さして問題もなく無事に子供ができる、または、意図もせずに子供ができてしまうこともあると思いますが

そうでないケースも世の中には多々あるということ、そのときに、ある程度の覚悟が必要となること

そういうことを伝えたいと思っています。

子供を作るかどうかということから、すこし外れていますが、

その先にあるかも知れないということ、そういう位置づけで呼んでいただければ幸いです。

また、私の視点は、覚悟ということが時として、非常に重いものということをお伝えしたいというものです。

判断にはいい面、悪い面、両方の視点が必要と思います。

「一歩踏み出せばOK。」

そういう意見も間違いではないと思います。しかし、ある程度の覚悟は必要です。

妻は一歳年下で、約4年前に僕たちは結婚しました。

その後、約2年の不妊治療を経て、結局は体外受精をし、幸運にも今の子供を授かることができました。

実のところ、その2年間は、私たち夫婦にとって、暗黒時代でした。

まず、私自身が不妊治療ということにためらいがありました。始める覚悟を決めるのに苦労しました。

体外受精なんて、考えたこともありませんでした。

それでも、どんな結果になろうとも、やっていくしかない。そう覚悟するに至ったのです。

私たちの不妊治療は、タイミング法から始まりました。

不妊も扱う、一般の婦人科に二人で受診しました。これが最初の覚悟でした。

タイミング法は排卵の周期を薬で整え、コントロールし、排卵日のタイミングを計るものでした。

1ヶ月に一度、それを繰り返していきますが、たった、1ヶ月に一度なのです。

そして、だめだった場合、次は翌月です。

時がたつにつれ、妻は焦り、不満を自分にぶつけてきます。

妻はもともとお酒は強いほうですが、中毒になるかと思うくらい、お酒に溺れたような時期もありました。

当時は賃貸マンションの11階に住んでいましたが、酔った妻が、自殺しようと飛び降りようとしたことさえありました。

タイミング法を始めて1年ぐらいの時期がまさにどん底だったのです。

自分は、つらい妻を強く支えなくては、と必死でしたが、自分もかなり危ない精神状態だったと思います。

正直、その当時の隣近所様には、毎晩毎晩、騒音でご迷惑をおかけしてしまっていました。

そんな時期、体外受精をする決心、覚悟をし、不妊治療病院を変えました。

転院した後、何度かタイミング法でしたが、最後の手段として体外受精をしました。

体外受精は、最初に薬でなるべくたくさんの卵子を採取し、その卵子に受精させた後、凍結保存して

何回か受胎を試みるというものでした。

妻は、たくさんの卵子を取るため、約2週間か1ヶ月ぐらい、毎日病院注射を受けに通いました。

1年以上、タイミング法をしていたときも、月に何度か病院を訪れ、そして、体外受精のときは毎日です。

妻は、仕事を続けることもできず、治療方針を変更する際に退職しました。

費用もそれなりにかかりました。今思えば、大学病院での出産以上のお金がかかりました。

それでも、妻は、子供ができることにかけていたのでした。

そして、これまた幸運にも、1回の採卵で最終的には10個の受精卵が確保でき、

うち、1つを子宮に戻し、残りは凍結保存としました。

さらに幸運が続き、一回目の体外受精で今の子ができてくれました。

子供ができたとわかったとき、妻は、体外受精後の検査から5日前に、妊娠検査薬検査していました。

私は仕事場で電話を受けたのですが、何度と無く、見てきた棒切れの窓に線が出ていると、妻が、震える声で話したとき、自分も震えてしまいました。

10ヶ月の妊娠期間、妻はとても幸せそうに過ごしていました。

そして、今年4月に娘は生まれてくれました。

本当に元気に泣き、まったくもって健康で、バラ色だ。

満ち足りている。。。そう思った矢先。

明日、娘の片目を摘出する手術を受けます。

目のガンです。1万5千人に1人、そう、万に一つという確立病気が目の前に起こりました。

万に一つのことは、実は現実になることがあるのです。

目を残すべく、抗がん剤などの治療をここ4ヶ月ほど試みましたが、残念ながら目を摘出するということになりました。

親として、目の摘出という、子供未来に大きな負担となるかもしれない決断を下すことになりましたが、

命の危険をこれ以上冒せないという視点からやむなく決断をしたしだいです。

ここ1ヶ月、妻とは意見が対立し、また大変な時期を過ごすこととなりました。

しかし、時間は待ってくれません。時間がかかれば、娘の命の危険は増すばかりです。

じっくり考える、、、それは考えましたが、未来はわかりません。

実のところ、最後には、覚悟を決めざるをえない、そういう状況になりました。


以上、わたしの経験を書かせていただきました。

私などより、もっとすごい経験をされている方もこの世の中には大勢いると思います。

そして、たぶん私は幸運なほうだと思います。

だからどうした。そう思うのが普通でしょう。

ですが、未来予測不可能です。これは間違いありません。

その予測不可能な未来に立ち向かう力、それが覚悟なのではないかと私は思います。そう信じています。

時間の余裕のなさ、予測不能さ、そういうことを何とか覚悟で乗り切ることが重要と思うしだいです。

そういう視点で、奥様とじっくりお話をされてはいかがかとおもいます。たとえ少しずつでも。

お二人の幸せを心からお祈り申し上げています。


最後に、勝手に私の思いを吐き出したこのような文章を読んでいただける方がいらっしゃれば非常にうれしく思います。

誰かに伝えたい、そういう思いがあった際、きっかけとなった増田さんの記事を見て、どうしても書きたくなってしまったのです。

ありがとうございました。

2007-12-02

1200万人が泣いた恋空ネタバレ

男と付き合い始めるヒロイン(新垣)→その男にふられた元カノ逆恨みし、不良男たちにレイプ指示→

数人の男から豪快なレイプをくらい瀕死状態のヒロイン

レイプされたにもかかわらず彼氏と平気で学校の図書室で豪快なSEX&強烈な中田氏

彼の子供妊娠元カノに押され、しりもちつく→流産→いきなりふられる→

ヤリマンヒロインはすぐに新しい彼を作る→前の彼がガンになってることを知る→

日々のノーマルなSEXに飽きたヒロインは、癌で瀕死の彼と無理やり無菌室での豪快なキス&野外で豪快なセックス&強烈な中田氏

→無菌室でのキス&セックスの疲労が要因で彼死亡→なぜか抗がん剤精子全滅だったはずの彼の子の妊娠発覚→

まあ将来とかよくわかんねーけど、とりあえず産むわ→またここに児童養護施設行きの可哀想な子供誕生日本中が泣いた

2007-08-20

弟が白血病にかかった その2

詳細がわかった。

急性骨髄性白血病(M0)で、かなり危険な状態だそうだ。

抗がん剤のため髪が抜けますと説明されて弟は

「俺はスキンヘッドも似合うんだぜ?」

とかって明るく言っていたらしい。

生まれてこの方、スキンヘッドはもちろんスポーツ刈りすらしたことねぇのに。

父と母は、気を抜くと泣けてくるようだった。つとめて何かするようにしていた。

そして荷物をまとめて看病のために東京に旅立った。

俺は泣かない。まだ生きてるんだし。まだ治療が始まったばかりなんだし。

泣く意味がわからねぇ。



……よな。と、自分に言い聞かせて。


http://anond.hatelabo.jp/20070816171839

2007-06-03

親父が倒れたら、隠されてたエグイ現実を目の当たりにすることになったんだ。

長文になってしまって申し訳ないんだけど、増田さん、話だけでも聞いてください。

 

親父はガンだった。肺に転移している。腸のほうは手術で全部取れるだろうが、肺はそうは行かないだろう。抗がん剤治療か何かをする可能性は高い。

詳細は、明日の18時の検査報告を待たなければならないけど。

 

親父が倒れてあらゆる「現実」が襲い掛かってきた。親父には100万以上の借金があった。貯金が無かった。保険に入っていなかった。

ワーキングプアをどうにかしなければなんて、ニュースブログ書籍に食いついてる場合じゃなかったよ。我ながらのんきなもんだ。ずっと知らなかったなんて。

 

親父は働けるかどうか分からない。望みが無いわけじゃないが、きっと無理だろう。会社をたたむのは骨が折れる仕事だ。

売掛金だって回収しなければならない。そんなんの仕組みは、大学生で正直授業の中の話だったのが、俄然ガチに私事になっちまった

 

俺は一刻も早く卒業して秋採用で就職するのが急務で(幸い今は売り手市場だし、大手企業の人事をしているメンターからも太鼓判を押してもらってるが)、

とにかくそれについて尽力するつもりだが、問題は二歳年上の非コミュ気味の兄だ。俺が見たところ、彼が就職できるかどうかはなかなか疑問だ。

二人で働けば何とかなるところを、下手すると彼の分までこの俺が面倒を見なければならないかもしれない。少なくとも彼はたった今、俺たちよりずっと辛い目にあっている

両親を支えることができてない。支えるすべを知らないし、そもそも支えようという気持ちそのものに疑問をさしはさんでいる状況だ。兄は自分のことで

せいいっぱいらしい。俺が両親の心が折れないよう、ここで踏ん張らなければならない。兄のほうまで手が回るだろうか。

俺がつぶれてしまわないように、兄を信頼すべきなのか。

 

両親には俺が大黒柱になってやるといったが、兄貴はとうとう言わなかった。それはともあれ、家族を支えるというその重さは今冷静に受け止めてるつもりだが、

今後どんどん重くなっていくんだろう。こいつはギザヤクイよ。ギザヤクイ。BACK TO THE FUTURE風に言えば、「こいつはヘヴィー」だ。

 

危機からは、目を背けちゃいけない。隠してもいけない。こうやって凄まじい大きさになって、必ず襲ってくるからだ。

わかってたつもりだったんだけどな。

2007-03-19

私は祖父に溺愛されていて、私も祖父を溺愛していた

ある日突然あなたのおじいちゃんよ、と母が私に年老いた男性を紹介した。

父・母・私の典型的核家族の中に、ぽんと老人が混ざった。

痩せぎすの体と日に焼けた顔、まるで猿のようだなとぼんやりと思っていた。

それが5歳の冬の出来事。

詳しい事情は大人の中で掻き消されてしまったから

何故祖父と同居することになったかは未だによくわからない。

とりあえず祖父は母の弟夫婦に追い出された、と言うことだけは理解した。

祖父は頭が悪い人だった。

足し算引き算がギリギリできる程度の人で、でも私のことを溺愛してくれていた。

だから私も祖父が大好きになってしまった。

小学校の高学年に上がる頃、祖父が急に痩せだした。

痩せぎすだった体はもっともっと細く棒きれのように貧相になり

日に焼けた褐色の肌は土気色に変化していた。

不審に思った母が病院に連れて行った所、末期の癌だと宣告された。

肺癌。

ヘビースモーカーだったからかもしれない。

祖父には詳しい事情を伝えずそのまま即入院

半年後食道に転移

更に半年後、脳に転移

癌が祖父の体を蝕んで行き

抗がん剤が体力を食いつくし

脳の腫瘍を焼く治療記憶までもが薄れていった。

私は学校休みの日には祖父の好きな食べ物をしこたま持って母と病院へ通った。

甘いものが大好きだからドーナツを持って

卵焼きが大好きだから必死に卵焼きを焼いて

干し柿が大好きだから干し柿を探して

伝えることも忘れてがむしゃらに祖父の好きなものを持っていった。

ある日、遂に祖父は母のことを忘れてしまった。

「どちら様でしたかな?」

母は気丈に振舞っていたけれど、家に帰って泣いていた。

それからしばらくして、何もわからなくなってしまった祖父が

病室でぽつりと言った言葉

「○○ちゃん、今日も来てくれてありがとうなぁ」

私の名前。

母の名も父の名も自分の名前さえすっかり忘れてしまった祖父は

私の名前をはっきりと呼んだ。

驚いて祖父を見たが、祖父はそのまま眠ってしまった。

1月3日、祖父と出合って丁度10年目の冬。

私の名前を呼んだ祖父は、そのまま永眠した。

どうしてあの時、祖父は私の名前を思い出したのだろうか。

ただ、あの時の声はきっと永遠に忘れないだろうと思う。

私は祖父に溺愛されていて、私も祖父を溺愛していた。

それだけのことかもしれないけれど。

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