はてなキーワード: 全国大会とは
で、今度は何処のソビエト連邦ですか?になるわけなのですが
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2007112901000732.html
宮崎県の東国原英夫知事は29日、徴兵制に賛意を示したとされる発言について「徴兵制を容認していない。戦争に直結するものでは全然ない」と弁明した。同時に、若者に一定期間、強制的に農業を体験させる「徴農制」などの仕組みが必要との考えを強調した。
東京都内で開かれた「道路整備の促進を求める全国大会」終了後に報道陣に答えた。
東国原知事は「徴兵制」発言について「社会のモラルハザード、規範意識の欠落、希薄化はどういうところで補うのか。学校教育が補えない中で、心身を鍛錬する場が必要ではないかと言いたかった」と釈明。
「この国の道徳観の崩壊を心配しての発言と解釈してほしい」とした上で、知事は「例えば徴農制とかで一定期間、農業を体験するとか、介護、医療、災害復興の手伝いなどをある程度強制しないと今後の担い手不足、社会構造の変化に付いていけないと危惧している」と強調した。
調教をしたいと言うということなんだろうな。
迷惑なことに生徒全員に部活動が義務付けられてた上に、テキトーにだらだら過ごせるようないい加減な部活は一つもなく、毎年コンクールや大会を目指して時期が近づくと朝練やら下校時間引き延ばしての練習やらが行われるような部活動ばかりだった。
運動神経皆無な上、体育会系の厳しい上下関係が大の苦手だったので消去法で吹奏楽に言い訳程度に弦楽器のついたような、名前だけのオーケストラに所属することにした。オケというのもおこがましい20人前後の部員で、なんとか室内管弦楽の規模で活動してるような部活だったが、うちの中学の学区内の端っこになかなか実力のある管弦楽部のある小学校があり、そこからやってきた子達の熱意はそりゃーもうすごいものだった。それのおかげで管弦楽部はそれなりに大会出場なども果たしていたのである。
その中で私と同学年だった一人に、まさに期待の星というようなバイオリン弾きの男の子がいた。背は私より15センチも小さくて、だけど目がキラキラしたかわいらしい美少年だったので、地区では結構な有名人だったようだ。
私は顧問の采配で、学校から貸し出されたバイオリンをぎちぎちと弾くことになった。最初は結構面白がっていたけれどだんだん面倒くさくなっていって、結局お義理で顔を出して弦と弓で不快な摩擦音を発するに過ぎなくなっていった。夏休みの練習もちょろちょろとサボっては顧問の先生や部長に叱られたり文句を言われたりと典型的なダメ部員になっていた。
それでも人数は少ないので大会が近いともなれば総動員される。何を間違ったか人数合わせで第一バイオリンで例の期待の星と組まされて、嫌気が差してたというのもある。彼の自前のバイオリンの艶やかな美しさといったら、そしてそこから奏でられる音色といったら。元から消去法で選んだ部活である、それに食いついてまで努力しようとは思えなかった。
なので冒頭にあるように呼び出されたときも、あー、またお小言か、とうんざりしながら職員室の扉をノックしたのである。
「手紙が来てるよ」
と先生は言った。見れば学区外ではあるが大会での地区は一緒になる中学の名前が、形の整ったきれいな文字で書いてあった。細いボールペンで書かれた端整な文字だった。封筒はシンプルで品の良い、かわいいデザインのものだった。そこでノートや便箋を集めるのが好きな私は、その手紙に少し好感を持ったのだった。
「××中学の管弦学部の子で、文通したいそうだよ。女の子だし楽器もバイオリンの子みたいだから、あなたが返事を書いたらどう?」
・・・確かに、私の学年でこの部活に所属してる女子は私だけだった。
とりあえず返事を書いて投函したら一週間もしないうちに返事が来た。今度は別の便箋だった。やはりセンスのいいデザインの便箋に、変わらずカチッとしたキレイな字で、小学生の頃からバイオリンを弾いてること、それがとても楽しいということ、そろそろ大会が近いから会えるといいね、など丁寧に書いてあった。
私もメールセットを集めるのは好きだったので、こちらの部活の状況や、課題曲はどうしてるか、中学から始めたばかりでまだまだヘタだから笑わないでね、など書いて投函した。また一週間と経たずに返事が来た。また別のかわいらしい便箋で、字は変わることなく端整だった。
部活の様子は?どんな子がいるの?
全国大会で撮った部活のみんなの写真送るね。そっちも送ってくれると嬉しいな。
私が返事を出せば必ず一週間以内に返事が来た。同じデザインの便箋を使うことなんて一度もなかった。
しかし、私のほうは疲れてきてた。元から部活に熱心だったわけじゃない。そんな調子じゃバイオリンの腕なんて上がるはずもなかったし、そのせいで更にやる気が減退するという悪循環の中にいた。三年生に上がってから部長になった期待の星君とは、私が不真面目なせいで諍いが絶えなかったし、手紙を書くのも途切れがちになっていった。
結局、私が一ヶ月に一度の手紙を四苦八苦して書くと、相変わらず丁寧で明るい内容の返事が一週間もせずに舞い込んでくる、そんなことを高校受験直前まで続けて、進学と共に自然消滅した。
ここから先はその数年後の話になる。
久し振りに中学時代の友人数人と会って、あれやこれや喋っていた時のこと。
「ねー、あの子知ってる?」
と、私の文通相手の子の名前があがった。
その高校はオーケストラ部が盛んなことで有名で、我が部の期待の星君もそれを目当てに進学を決めたという。
「あの子、期待の星君にべったりでさー」
「同じ中学の子に聞いたら、中学の頃に地区大会で見かけてからキャーキャー言ってたんだって」
・・・・・・それってつまり。
うわー、と頭を抱えたくなった。きっと文通相手の子は勇気を振り絞って、期待の星君と文通したくて手紙を出したのだ。彼以外にバイオリン弾いてる同学年の人間がいるなんてきっと思ってもいなかったのだ。それが何をまかり間違ったか、その子の好きなバイオリンをいやいや弾いて、その子の好きな男の子と顔をあわせりゃ喧嘩ばっかりして、挙句に丁寧な手紙まで重荷に思うような女が手に取ってしまうとは、夢にも思わなかったに違いない。
あー、部員の写真をほしがってたのもそういうことか・・・期待の星君の写真がほしかったんだろうな・・・。
勿論今となっては確認する術もない。それでも自分は邪魔者だったんだなと思うと胸の内に冷たい風が吹く思いだ。
けどね。
と、一つだけ言い訳しておく。
期待の星だったあいつと文通できても、あいつは字は汚いし、バイオリンのこと以外は何もかも面倒くさがって途中で放り投げるようなヤツだったからきっと三往復も続かなかったと思うよ!
期待外れの相手とだらだら続けるのと、どっちがマシかはわからないけどね。
彼女たちはその"男子の高校野球"がしたいんでしょう。女子の硬式野球の全国大会とかがあるのかどうかは知らないけど、高校野球とは完全に別物だろうし。
他の競技だと概ね男女で並列してるイメージだけど(例えばテニスとかバレーとか)、野球は違う気がする(サッカーも)。
それとも男子の競技だというイメージが強くて女子部が作れない(人が足りなくて)→男子に混じる→でも大会には出れない、というラインなのかな。テニス/バレーに比べれば、サッカー/野球は女子の競技人口が少なそうだ。ラグビーくらいになるとさすがに性別による差が越えられない壁になりそう。
徹夜の時間潰しに生まれてからの四半世紀を覚えている範囲で振り返ってみました。
一部あんまり意味の無い記述とかありますがあんま突っ込まないでくれれば幸いです。
1981年生まれの25歳。
■保育園時代
今考えるとこの時から周り(他の園児)と馴染めず一人遊びが多かった。
■小学校低学年
外で遊ぶ事が多かった。
ただ、同級生らと遊んでる最中に気が付くと置いてけぼり食らって一人だったとか。
何かに気が行くと周りが見えなくなるタイプだったという事か?
この頃から家庭訪問では毎回"やればできる子"と言われる。
それが真実だったかどうかはさておき、特に何もやらずに過ごす。
ファミコンに代表される家庭用ゲーム機が本格的に普及し始めたのもこの頃。
ファミコンを親に激しくせがんだ末に買って貰ったのはメガドライブ。
当然の如く、これはファミコンじゃない!と抗議。
父親の実家から祖母がやってくる。
■小学生高学年
母親の入院が長期化。5年生の一年間を父親の実家がある沖縄で過ごす。
それまで特に何の説明も受けず、こちらからも聞こうとしなかった故に、
あまりの唐突すぎる状況に全くついていけず通夜の晩は普通に就寝。
翌日の告別式でも涙が出ない。火葬場で棺が納められた炉の扉が閉まって、
ようやく思考が現実に追いつく。泣く。父親にしがみ付いていた記憶がある。
何度か棺の中を見た記憶はあるのだが死に顔は全く思い出せない。
その後沖縄に戻る。
春になり東京に戻ることになったが、父親の横には見知らぬ女性が。
幼児までいるし。告別式の晩に泊まった、父親の部屋には誰かと一緒に生活
している気配があった為、特に大きなショックも無く。
今考えると驚くほど違和感無く打ち解ける。弟の世話もなかなか新鮮な体験だった。
将来の夢は弟の影響で保父(保育士)だったが楽器演奏が壊滅的だったので諦める。
■中学生
入学当初がピークで成績は下がりっぱなし。ただ、非行に走ったとかいうわけでもなく
周りが進んでいく中で取り残されただけだった。
集団の中での規律というかルールを守るタイプの人間でもなかったのでいじめられる事も
しばしば。とはいっても極端に酷い状況に追い詰められる事はなかった。
文芸部の活動で歌舞伎座に行った時は、東銀座にも関わらず物凄く遠くに来たような気がした。
(生活していたのは練馬区)
■高校生
この頃から、ようやく世間(外の世界)を意識するように。
ただ、将来の夢は無し。周りが就職するっていうから流されて就職。
■社会人(19??
1年目
2年目
(印刷機から製版機へ)
自分を含めサポート人員が全国で3人しか居ないという状況で出張範囲が
一気に関東から九州まで広がる。でも、営業部だから手当は雀の涙。
3年目
業務内容は変わらず名古屋に転勤。
MMORPGを憶える。
4年目
大阪に転勤。業務変わらず。
が、そこの所長とウマが合わず転勤後2ヶ月で退職。
■NEET?生活(22??
1年目
ネトゲやってるか寝てるかの生活。外出は基本的にコンビニ行くときのみ。
バイトも試みるものの長続きせず、この頃は殆ど変化のない生活だった為、あまり記憶に残っていない。
2年目
前半はネトゲ生活。部屋から物が無くなる。(お察し下さい
夏に、会社員時代の同僚からmixiのお誘いがかかる。それほど時間も経たないうちにコミュのOFF会に
出てみたりするなど生活に変化が。OFF会である人物と仲良くなる。
その頃からネトゲの幻から目が覚める。でも仕事はしたくない・・・したくないというか、やりたい仕事とは
あまりにもかけ離れていた為、やる気が出なかった。
やりたかった仕事というのは、IT系のハードウェアに近いところ。
NEET生活も3年目に挿しかかろうという頃、住所不定に転落の危機。
藁をも掴む思いで前述の人物に相談。「東京じゃなないところで生活する事になるけど行く?」と
聞かれ、即答。今の職場を紹介してもらう。
■社会復帰(24??
1年目
職場のエースと自分とのあまりの実力差に価値観というか自尊心がものの見事にぶっ壊される。
多少判るとはいっても結局のところ、自分は初心者に毛が生えた程度だと思い知らされました。
やりたい仕事ってなんだったんだっけ?といった具合に立ち位置を見失う。
この頃からOFF会で出会った人物の事を先生と呼ぶようになる。
2年目
相変わらず彷徨っていた。のだが、なんとなく自分の立ち位置(出来る事)が見えてきたような気が
してくる。同時に、この頃から自分の性格というか志向で思い悩むように。いい加減遊んでいられる
年齢でもなくなって来た焦りもある。気が付けば四半世紀。
3年目(今年
職人にはなれない事をようやく自覚。ただ、自分が社会に対して出来る事が何なのかは未だ不明。
まだまだ当分もがく事になりそうです。
#気が付けば実母との付き合いより養母との付き合いの方が長いのか・・・
#ちなみに4人兄妹(俺妹弟妹)ですが、妹たちのお話はまた別の機会にでも。(あるかどうか判らないけど。