はてなキーワード: 上家とは
生まれた頃からおとなしく無口だった。
小学校2年のとき、虐めがはじまった。毎日泣いていた。よりいっそう無口になった。
3年・4年のときは、クラスメート誰にも口を聞かない変な子供だった。いじめは止まない。
5年はいじめから開放された。友達もできたけど、6年生で転校。また、ゼロからのスタートとなった。
急転直下の中学校2年。部活の全メンバーから、総無視をくらった。何か喋りかけると舌打ちされるか逃げられる。
殴られることはなかったけど、冷酷ないじめだった。
こっちのほうが精神的につらかった。多感な時期に人間不信になった。きっと自分は最悪の人間なんだろうと思うようになった。
それでも、高校でも部活に入った。なんとか仲間内に加わり、休日の部活の後にはゲーセン・映画・カラオケ。
普通の高校生みたいだけど、表面上の付き合いしかできなくなっていた。
「無表情」とよく言われた。皆についていくだけが精一杯。
高3になり、部活が終わり、受験シーズンになれば、メンバーと話すこともなかった。
人間不信は強まる一方だった。受験の頃は、まわりのクラスメートが自分の変なうわさをしてるんじゃないかと周りの視線が気になり、授業に集中できなくなった。
一人で物思いにふけることが多くなり、死んだら自分の意識はどうなるんだろうとか、そもそも人間の意識なんて意味があるんだろうかとか、わけわからないことばかり考えてた。
大人になったら、誰もいない山里でひっそりと生きていくのが夢だった。楽に生きるためにも、大学まではがんばろうと思った。
なんとか大学に入った。集中できない癖はなおらなかった。人と接するのがいっそう辛くなり、サークルにも入らなかった。
親しくしてくる人にもソッポを向き、できる限り人間関係を作らないようにした。いつも一人だったけど、それはそれで幸せだった。
大学の講義が終われば、自宅に引きこもり。ゲーム・読書三昧。夏休みは一週間以上家を出ないこともあった。
そして卒業。。。
ニートへまっしぐら・・・・っという展開に見えるけど、そうはならなかった。
なぜか今は結婚し、ちゃんとした会社で働いている。会社では、それなりに信頼もされている(つもりだ)し、昨年は(昨年だけは)Aランクの査定を受けた。
平凡だけど、れっきとした社会人として生きている。
無口、無表情。コミュニケーションは下手だし、何をしても不器用。人の視線が気になる癖も、稀に復活して辛いこともある。
人間関係がしんどくなったり、自分の不甲斐なさに打ちひしがれることもしばしば。休みになればプチ引きこもり生活。友達もいない。
会社同期に飲みに誘われても逃げてしまう。
そんな状況だけど、学生時代が信じられないくらい、幸せな毎日。
家に帰れば妻が待っていてくれる。無口な私でも楽しそうに話しかけてくれる。私を信頼し、私のために尽くしてくれる。
無口で不器用な人間でも、黙々と仕事をしてれば評価してくれる人もいる。
気の利いた言葉もいえず、無表情で不器用でも、気に入ってくれる女性はいる。
そんな事実が、何とかここまで僕を導いてくれました。
きっと学生時代の私と同じような境遇をすごしている学生さん、ニートさん、いっぱいいると思う。
無理におしゃれする必要はないし、明るく振舞う必要もない。ダメな自分はダメなままでいいと思います。
自分を変える必要はない。
辛いときは逃げれば良い。
努力する必要もない。
逃げたいときには逃げれば良い。
そう思います。
ただ、人と接することを忘れないこと。いつかは、理解してくれる人、評価してくれる人、愛してくれる人に出会えるはず。
そして、あらゆる人に感謝の念を忘れないこと。
無口・無表情で、ろくに挨拶ができなくとも、感謝の意を表現できなくても、気持ちは伝わるものです。
だからあきらめないでください。
http://anond.hatelabo.jp/20090415074829
これの続きようなモノ。
大学を「学校に行けない病気」で退学した私は学校で学んだことを生かせる仕事を探していた。ただ、学んだ分野が環境化学というあまりメジャーじゃなく仕事も少なそうな分野だったので探すのにかなり苦労した。
それでも農薬を作っている会社の研究所に潜り込む事に成功した。
仕事は元々興味ある分野だったし、残業も殆ど無いような負荷も少ないもので学校で学んだ知識と新しく学んだ事でのびのびと仕事することができた。幸いなことに評価も良く順風満帆な日々を過ごすことができた。
しかし、半年ほどして異変が訪れる。
「学校に行けない病気」が再発したのだ。いや、増悪したとも言うべきだろうか。
当時、通勤は電車とバスを利用していたのだが、バスから降りられなくなったのだ。
降りるべき停留所が近づくと段々呼吸は速くなる。動悸もして息苦しく頭が真っ白になる。それは停留所に近づけば近づくほど強くなり、停留所を超えると段々収まり今度は自責の念が私を責め立てる。
「死ねゴミ死ねゴミ死ねゴミ死ねゴミ死ねゴミ死ねゴミ…(以下延々繰り返される)」
と云う言葉で頭の中が支配される。
始めのうちは先の停留所から引き返して遅刻、ということで処理はできていたのだけど、それも数が増えると話は少しややこしくなった。程なく上長から注意を受けた。怖いタイプの人ではなかったので大したことは言われなかったとは思うけど、それが自責の念を増長させた。
注意後は引き返すことすらできなくなり、途中の停留所で降りて、音のしない場所を必死になって探して勤務開始ぎりぎりくらいに休む旨の電話を携帯からした。なぜか解らないけど「音のしない場所」というのを必死になって探していたのを覚えている。
そんなのが一週間くらい続いて、また上長から注意を受けた。今度は上長の上長もやってきて注意を受けた。
いわゆる厳重注意に当たるものだと思う。同時に何か精神的に何か問題は無いか、とも聞かれ初めて精神科を受けることになる。
薬を飲むようになってからは少し落ち着き二ヶ月くらいは普通に出社できた。
このまま何事もなければ今頃私はその研究所で正社員として活躍していたかもしれない。
だけど現実はそんな風にはさせてくれなかった。
年が明けてすぐ再び「病気」は再発した。また一週間くらい行けなくなった。
二度目はなかった。
程なく無理矢理呼び出され、所長と上長の上長と上長の3人と面談となりその場で「今日付で自己都合で辞めてくれ」と言われた。
当たり前と言えば当たり前。でも当時の私には裏切られた思いでいっぱいだった。あんなに評価してくれて良くしてくれたのにあっさり辞めさせられるんだ…って。
「病気」とは別の形で頭が真っ白になりつつその場で辞表を書かされた。
その後、ふと思い立って辞めた大学に復学したけれどこんな状態じゃ学業もできるわけもなく、元々辞めた理由の「学校に行けない病」も再発し半年で再び辞めた。
入学金諸々200万をドブに捨てた。
大学復帰の道も閉ざされた私は仕事を探しては何とかどこかの会社に潜り込み
朝起きる→朝食食べる→着替えて外出る→電車乗る→漠然とした恐怖・不安→目的地駅で降りられない→どこかで降りて休みの連絡を入れる→休み多くなる→呼び出しの電話→クビ
と言うプロセスを面白いように繰り返していた。
そこに休養という文字はなかった。なぜなら家族が「病気」に対しての理解がなかったから。
父曰く「サボってるだけじゃないのか?」
とナチュラルに言うのだから休養なんてできるわけがなかった。
この辺で「社会は、会社は誰も私を救ってくれない。絶望した!」みたいなことを思うようになっていた。
派遣で潜り込んだ会社で宇都宮の世界の誰もが知っているメーカーの研究所に派遣された。
派遣先に上長が私をえらく気に入ってくれたらしく「5年以上の長いスパンで働いて欲しい」とまで言われ、場合によっては正社員雇用も…みたいなことまで言われた。
仕事は化学とはあまり関係のない分析評価の仕事だったけど、仮に在籍していた5流大学を新卒してでも入れなさそうなメーカーで正社員も夢じゃない…みたいな話だったので殆ど二つ返事でその仕事を受けた。
宇都宮はさすがに通勤できないので転居して一人暮らしをすることになった。
初めての一人暮らしは不安だったけど、恐怖の対象であった父や口うるさい母もいないのでむしろ好都合だったし、住環境も周辺環境も恵まれていたし、仕事場まで車で10分。車がないと不便な場所ではあったけど日用雑貨からPCパーツまで車で20分も走らない場所で揃えられたので今思っても最高の環境だった。
そんな中で最近(2009年現在)世に出た製品のさらに次の製品に向けての技術の研究という最先端中の最先端の仕事ができた。職場環境も居室が機械だらけで動作音がうるさい以外はまさに最高。言うことがなかった。
そんな最高の環境の中で多少の休みはあったけれど半年くらい仕事をすることができた。
しかし、そんな最高の環境の中でも異変は起きた。
トリガーはなんてことのない物だった。簡単に言うと部署間での私の取り合い。
私がいた居室は3つの部署が共有していた。
一つは私がいたところ、もう一つは私たちの一つ前、最近世に出た製品の技術関係を手がけていた部署。もう一つは良くわかんないけど別の事していた。
その最近世に出た製品の技術関係を手がけていた部署の係長が「ちょっと最近忙しいから一月くらい手伝ってくれないか?」と言ってきたのだ。今所属している部署の係長もOKしているみたいなことを言われたが、正直行きたくなかった。
と言うのもその係長が生理的に受け付けられないタイプでその部署もあまりいい空気ではなかったからだ。それでも「一ヶ月くらいなら」と、言うことで異動することに了承した。
そこで話が終わればもうちょっとそこでの仕事が長続きしたかもしれない。
いざ異動してみるとその係長から「ここに来たからにはもうずっとここにいてもらうからね♪」みたいなことをナチュラルに言われた。
話が違う!
抗議した、猛烈に抗議した。その抗議は部長を引っ張り出す騒ぎになったが、その決定を覆すにはさらに上の役員を引っ張り出さないといけないらしく、覆すのは事実上不可能だった。
元いた部署で一番お世話になった主任は「あの人はそういう人なんだよ。」と自嘲的に言っていた。結局決定は覆らず、「なんか語弊があったけどこういう事だから頑張ってね♪」みたいな係長二人のサイン入り書面を差し出された私はその日早退した。
そして一週間休んだ。
「ちょっと精神科行こうか」
当時、すでに近所のメンタルクリニックで投薬治療を受けていたけど、それは会社には隠していたので通っている病院とは別の精神科になんとか行くことになった。
そこで「鬱状態」と診断された。
翌日、派遣元の支店長から「支店にちょっと来いやと」いう連絡を受け、宇都宮駅前の支店事務所に向かった。そこで支店長から言われたのは「派遣先から撤退する。お前会社辞めろ」と言う事実上の解雇通知だった。
は?
なんで?
確かに「病気」の事は隠していたけど、事情が事情だし…というかなんで休養とかそういうのもすっ飛ばして辞めろとかになる訳?
抗議した。そんなのおかしい、何で辞めなきゃいけないんだ?
猛烈な言い合いは4時間を超えた。
で、痺れを切らしたのか支店長はこう言った。
「精神障害者は使えないんだよ!!!」
あぁ…。
何かが崩れ落ちた気がした。
支店長がどういう意味でそういったのかは知らない。でも、その言葉はあまりにも無情で残酷で…世間の正論過ぎた。
程なく辞める旨を伝え、それから数日で宇都宮から実家へと帰還となった。
それから仕事を探しては数日でいけなくなってクビになると言うのを何年も繰り返した。
一番行くところまで逝ったところだと、静岡の某宇都宮で居たメーカーの同業他社で、そこはお世辞にもいい職場環境ではなく仕事をした時は2週間くらいで会社に行けなくなった。
で、また数日会社に行けなくなって派遣元から「これ以上休んだらクビにします」と言う最後通告の電話を受けた直後殆ど自動的にアルコールで抗うつ剤その他100錠近くを一気に飲み込んだ。
結果は…今ここに私が居るわけで未遂に終わった。
友人と家族は…多分許してくれたと思う。そう思いたい。
46万円。
退職金という名目だったけど、書面を見ると事実上の手切れ金だった。
「46万円やるからさっさとここから消え失せろ」
コンプライアンス事業部のえらい人が放った言葉は穏やかだったけど実質そんなものだった。
労基とかそんなの以前に服薬の影響で記憶も曖昧な状態でろくな判断能力もあるわけが無く46万円押しつけられて派遣元会社をクビになり、再び実家へと戻ってきた。
その後も会社は行ってはクビになるを何回も何回も繰り返していた。
「休養しろ」とか言われると思うけど、当時金銭的な問題で月に10万以上金を稼がなくてはならない状況で何が何でも仕事をしなければならなく、その上家族も多少の理解は得られたとはいえ病気に関してはまだ「怠けだ、甘えだ」と思っている節があるらしく家にいても正直休まらなかった。
そんな感じでこじれにこじれて今に至り、前述の「会社に行けない 」のエントリーに繋がるわけです。
ちなみにこの会社もクビになりました。
熱意はWebエントリーで落とされても社長に直訴の手紙を出すほどにあった。
技術も気がつけば新入りではずば抜けてあったらしく、赴任先事務所でも即戦力になるほどだった。
でも、会社に行けない、と言う社会人として当たり前のことができなくてクビになった。
結局何やっても、どんな事しても「会社に行けない病」をどうにかしない限り私は社会生活を送ることができないらしい。そもそも社会が私を受け入れてくれないようなのだ。
最近になって金銭的な面が法的にどうになるようになり、少し休養する時間ができるようになった。精神科に通院投薬治療は続いているし、障害者手帳も取得することができた(ただしあまり役に立ってない)
ただ、家庭経済面で休養、はできないらしく、父母からは「最低アルバイトはしろ」と言われてしまった。そんなわけで今アルバイトを探している。なるべく負荷の少ないコンビニとかそんな仕事をいくつか面接入れている。
三十路過ぎて大学中退、しかも職歴むちゃくちゃな私をどこが雇ってくれるだろうか?
しかもフリーターという身分。結婚以前に恋愛もできやしない。そして何より、この先這い上がるチャンスという物が事実上ゼロだという現実に直視しなければならない。
この状況で社会という物に希望を見いだすことができるだろうか?
正直今の私には無理だ…。
自分が使ってる車を考えてみた。正直、年間の費用なんて考えた事無かったから、良い機会だ。
・自動車税7,200円
・駐車場代金 家賃込みだけど周辺の相場は高くて月5,000円 いちおう60,000円計上する。
・ガソリン代 60,000円 通勤と半径30km圏内への買い物。旅行などは除く。
・消耗品 20,000円 特にコレといってピンとこないけど元ネタをそのままに。
・車検費用+自賠責+重量税+印紙代 62,165円/2年 →31,100円/1年(安い車検専門店)
・予備費 30,000円 特にコレといってピンとこないけど元ネタをそのままに。
以上、合計383,300円
計算上はこの金額になるけど、
・駐車場は賃貸アパートの家賃込みになっている。-60,000円(そもそも駐車場無しの物件が無い)
・通勤のガソリン代は会社持ちなので、-30,000円(会社はオイル交換の費用を持ってくれている)
・消耗品や予備品はもっと低い。車検の度にタイヤ替えてもこんなにかからん。半分にしておく-25,000円。
実際の金額268,300円。月に23,000円。
実は数年前に結婚して、子供も生まれたので、次はホンダのフリードを買う予定。
・自動車税34,500円
・任意保険55,000円
・ガソリン代40,000円
・雑費100,000円(新車買ったらうれしくていろいろ買いそうなので)
・車検+自賠責+重量税+印紙 98,855円/2年 →50,000円/年(安い車検専門店)
以上、合計529,500円。月に44,000円。雑費を半分減らせば月に40,000円になる。
月の収入が手取り25~35万。残業で変動。ボーナス年間2回で手取りで150万。手取りの年収が500前後くらいか。
今は収入の5%が車両維持費に消えている。車を買い換えたら10%近くなるな・・・
家賃込みでカミさんの素晴らしいやりくりで年間300万で生活できている事を考えると、車両維持費が生活費に占める割合は、今は9%、新車買ったら18%になる。
家賃には及ばないけど、生活費の中で家賃に次いで高額かと思ったが、食費よりは安いか。うちは酒を飲むから食費が高いのだ。
貯蓄/投資、家賃、食費(酒含む)、車両維持費、俺の小遣い、光熱費、通信費という順番に金がかかる。
今は23,000円だからいいけど、新車買ったら40,000円かあ。食費と肩を並べてしまう。と言う事はこれ以上の車は贅沢品だろうな。生命を維持する費用よりも高額な車両維持費はありえん。
後5年すると、家を建てるお金が貯まる(2500万で立派な家が建つ田舎なのだ)だけど新車買うとマイナス200万+年間維持費20万増。1年間の貯蓄+αが飛ぶ。つまり家を建てるお金が貯まるのが1年以上遅くなる。あーでも5年経つと子供は小学校に入る。カミさんにも働いてもらうかなあ・・・そうなったらそうなったで車1台買わなきゃ。っつーか、後5年したら俺、40歳超えてるwww
うーむ。フリード買うだけでも、ちと贅沢っぽいなあ・・・貧乏人はつらいなあ。でも、俺の収入は決して高くは無いが、そんなに酷くは無いはずなんだ。自宅を購入しようとお金を貯めているのもあるが、俺がフリード程度で躊躇するんだから、収入が安定しない人は車は高いかもしれない。今、住宅ローン抱えるのは危険だしなあ・・・
30歳の誕生日の日に子供が来た。役所だけは俺の誕生日を忘れないできっちりと祝ってくれる。
徹夜続きのやつれた顔で顔を出すと赤ん坊を抱えた配達員が突っ立っていて,サインお願いしますと無表情のまま言った。拒否した場合,以後の結婚は受理されないし子供を産む権利も与えられず,税金だけはどっと増えることを考えるとサインするしかないのだ。受け取った子どもはずしり,と重かった。おめでとうございます,とだけ言って配達員は帰って行った。よく寝ている子供の顔を見下ろすとため息が漏れた。
中絶が法律で禁止される代わりに,30歳の誕生日が来たら強制的に養子を養う義務が生じたのは数年前からだが,国会議員どもは30歳などはるか昔の話だと思っているのかすんなりと法案は成立してしまった。世論は大荒れだったが一度始まってしまうとなかなか変わらないもののようだ。
やってきた子どもはおとなしい健康な子で,忙しい俺の下で育っている割にはすくすくと育った。いったいどんな修羅場を経験しなきゃいけないんだろうと思っていたが拍子抜けするほどだ。どうやら俺はだいぶ幸運なようだが。
そんなこんなしてるうちに俺はある女性と出会った。彼女とはよく気があい,すぐに結婚しようという話になった。彼女も三十歳を超えていたので子持ちだった。少しやんちゃな子供だったが,俺の子ともすぐに仲良くなって彼女はいきなり四人家族ね,と幸せそうに笑った。
俺の稼ぎも彼女の稼ぎも大したことないので四人の生活は裕福ではなかったから,これ以上家族は増やせない,というのが二人の結論だった。子どもは作らないように気をつけなければ,と彼女は割と深刻な顔をして言った。だってこれ以上余裕ないもの,あなたに倒れられても困るし,と。俺はただ頷くしかできなかった。また増税したのだ。給料が上がるスピードより増税のスピードの方が速い。新生児ができて,彼女が仕事を休むとなると,と考えるとまったくやって行ける気がしなかった。
ある日曜日,子どもたちと買い物に行って帰ってきたら彼女が青ざめた顔でリビングに座り込んでいた。何かあったのかと問うとどうしよう,と泣きそうな顔で言う。
「出来たみたい……」
こどもたちは異変を察してさっと自分たちの部屋へ行ってしまった。
「どうしよう,流産したら罰金だし,このあたりに産科はないし,育てられないのに……」
ギュッと唇を結んで彼女は俺の方を見ている。しばらく見つめあう。二人とも同じことを考えているのがわかった。言葉にするのをためらったのは俺の方だった。
「……養子に出そうか」
俺はわが子の顔を知らない。