はてなキーワード: 一般教養とは
メガネは心の錦だと言いたいようだな。その意見は大いに同意するところだが、私の言っているのは視覚的フェティシズムであり、芸術作品として完成されたメガネっ娘がメガネをはずすという破壊的行為に対する抗議なのだ。そこを履き違えてもらっては困る。
しかし、あなたの言うとおり、広義の意味でメガネっ娘がメガネをはずせばただの娘になるわけではない。同様にポニテ娘がポニテを解いたところで、活発・健全といったアビリティが消えるわけではない。そこは一般教養として承知しているので誤解を解いていただきたいが、そのような表現をした私が悪かった。申し訳ない。
ところで、あなたはかなり高位のメガネっ娘萌えとお見受けする。その上でお尋ねしたいが、私は常々「メガネっ娘」と「メガネさん」は視覚的・精神的にニュアンスが大きく違うと感じているのだが、その点について忌憚ない意見を伺いたい。ちなみに私は後者に萌える。
http://anond.hatelabo.jp/20070509033102
私はポニテ萌え界隈に属するのであくまで一個人の意見として聞いていただきたいが、私の解釈でもおおむねそんな感じだ。それに付け加えるとすれば、
このようなアビリティがつくだろう。もちろんキャラクターによってはバラつきがあり、上記が当てはまらないケースもあるだろうが。
メガネさんは最高だ。
あぁ、最高だ。あなたとはうまい酒が飲めそうだ。
http://anond.hatelabo.jp/20070509035830
あくまで一個人としての意見だが、女医さんは「メガネさん」にカテゴライズされると思う。他の職業的分類としては教師、博士、システムエンジニアなどが該当するだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20070508015711
確かに同意。特にWebサービスの場合既存のサービスを後追いし先行サービスを追い抜くことはほぼ不可能に近いため、「需要がないところに無理やり需要を作り出す」ということが必要になるが、しかしmixiのようにある特定のサービスにだけ頼ってしまうことは危険である。なぜなら「自らが作り出した需要」によって保たれているサービスは、恒久的に利用者が飽きずにそれを利用してくれるかどうかわからないから。成功の条件は「誰もが考えつかなかった『あれば便利だけどいままでなかったサービス』を複数成功させ、そのサービス界ではトップに立つこと」だろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20070508021516
ただし最近の「起業」に対するイメージはマスメディアの報道もあり「ハイリスク・ハイリターン」から「簡単に金持ちになれる」に変化しているのではないか。金がほしいから起業したい、社長になりたいから起業したいという安直な考えを持つ人間が増えていると思うのは自分だけだろうか。また、自分の持つ何らかの理念を実現したいから起業するのではなく、起業そのものが目的となっている状況は何か不思議である。
実は私も大学生でありながら複数のウェブサイトを運営し、雑誌社(主にネットワーク技術関連)に定期的に執筆依頼を頼まれ(とはいえ、この文章を見ても明らかなように私は文章作成が非常に苦手である)、ソフトウェアの開発配布を行うことで小金を稼いでいる。よく友人は「なぜ法人化しないのか」と言われるが、私にとって法人化とは自らをその分野に束縛するものでしかなく、メリットがないために行う気はない。そもそも「法人」「会社」「ビジネス」「経営」といった知識が全くないため、恐ろしくて法人化などすることもできない。税務関係は大学1,2年に暇を見つけて勉強し公認会計士ならびに日商簿記1級を取得したため大体は理解できるのだが、ビジネスとなると全くわからない。起業を目指すならば、一度社会に出てこの「ビジネス」に関して少しでも触れる必要があるのではないか、と強く感じるのである。(「起業を目指す」とは書いたものの、そもそも前段で書いたように「起業」そのものが目的となっているのは異常だと思うのだが。)
そういえば、大学生が経営する企業は「経営者が大学生であること」を売りにする場合が多いのだが(自分の周りを見ると)、彼らは「大学生」という身分を離れた後どうやって社会で競っていくというのだろうか。社会を知らずに、ビジネスを知らずに起業した大学生社長は、大学生という身分を離れた瞬間に未来を失い、そして「企業経営ごっこ」をしている間に失った時間を回顧することになるだろう。
とはいえ、「起業とは何か」「ビジネスとは何か」ということに関して、メディアはそれなりに報道するべきなのではないか。以前私は「ハーバード大学やオックスフォード大学の学生は将来起業したいという学生が大半を占める」という話を聞いたが、なぜ彼らは起業したいと考えるのか、またそこになぜ起業する必要性があるのか、私には理解できない。理解するための書物もまだ少ない。説明できる方はいるのだろうか?私の通う大学は1,2年を教養課程として一般教養を広く身につけるための授業を展開しているのだが、その中で「ビジネス」に関する講義があると少しうれしかった。
http://anond.hatelabo.jp/20070408124708
http://anond.hatelabo.jp/20070408130406
おそらく増田の兄弟(姉妹)が色々語ってくれるものと思うが、私もひとつ。
そのへん、大学の一般教養「社会学」で勉強したことがある。日本には確立した「デート文化」がないので若者も困っている状態だ、というような。もうだいぶ昔の話なのでおぼろげだけど、アメリカなんかでは「デート文化」っていうものがしっかりあって、週末のパーティーに誘って、誘われて、何回かデートして、親しくなったら「ステディ」になるそうな。で、それまでのデートは「子犬のデート」と呼ばれていて、一緒にいても「つきあってる」わけではない。それを何回か経た上で正式に交際申し込みしてはじめて「ステディデート」になるらしい。当然、それぞれのデートには選択できるメニューの範囲が不文律化されている。ステディでもないのにキスしようとしたらひっぱたかれますよ、みたいな。
一方日本では鉛筆を使った。、そういった交際の手順が不文律化されていないから、段階を踏めない。みんなひとりひとりが噂を頼りに手探りでやってるわけ。要するに何でもありなわけだが、逆に一方の思い込みが相手に通用しないこともある。…てな感じの話。
だから、相手にぶっちゃけ聞いてみるのがいいのかな、と思う。あと、自分の思ってることを正直に言えばいいと思う。それで面倒くさがらずに話につきあってくれる人とは、文字通り、つきあえるでしょう。例えば、「ちやほやしてほしいと思ってた」「私だけを大事にして欲しいって思ってた」と、言ってみればいい。別に何でも話せる必要はないけど、何でも聞けるかどうかは重要な気がする。
で、実際にどうすればいいかっていうと、かつて増田が書いた名文があったんだが探せなかった。だもんで二番煎じになるが、できるだけ時間をとって、一緒に過ごして、一緒にいろんなところに行ってみるといい。一緒に楽しいことをして、一緒にきれいなものを見て、一緒にごはんを食べて、…お互いが誰かとやりたいことを、その人としてみればいい。
答えはたぶんすぐそこにあって、踏み出してみること以外にないんじゃないかな。
あと、余談になるが、友人の話は参考になる。…というか、こいつ、友人に入れ知恵されてきたな、と思うことはよくあった。いっちゃえとかやめとけとか、好き放題のこと言われること請け合いだが、忌憚のない話を聞いて、こっちも話しているうちに、自分の中の答えが自ずと浮かび上がってくるもんだ。自分の中だけで反芻しているとどうしてもどす黒く行き詰まる。
まとまりないが、こんなかんじで。…若者よ、頑張れ。
で、それから、何の問題があるんだい?
エリートになろうと思うと塾に行かなくてはならなくなったので、子供の教育にお金をかけられる親とかけられない親の間で子供に受けさせられる教育の格差が広がりました。教育の格差が、ほぼそのまま子供の将来の所得格差に繋がる社会になりつつあるので、将来的には教育の格差がそのまま世帯収入の格差に直結していくようになると思われます。
ゆとり教育自体は、一元化した教育カリキュラムを多様な特性や要求を持つ生徒に無理やり一斉に受けさせると言う不合理なシステムを緩和したことに意義があったと思いますが、問題は、より学習したいと言う生徒の塾通いに対する公的な補助、もしくは学校教育機関とは別の人材を登用した公的な学習指導の場が存在しなかったことだ、と私は考えます。
一般教養でマクロ経済の講義を受けただけのぼくが、一昨年買ったけど全く読んでなかったミクロ経済の教科書片手に、論争の経済学的な面を経済学的に完全(誇張)に解説し、論争そのものがなんだったのかまとめてみせよう。(数式は基本的に使わず、微分じゃなくて差分で説明してます。)
まず経済学の一番の基本である需要と供給(wikipedia)は押さえておこう。需要、供給、均衡のとこと図に目を通せばいい。価格ごとに需要量や供給量が決まる。そしてそれぞれの曲線の交点が実現される量と価格になる、ってのを押さえればおk。あとわざわざ書いてないけど、これが労働市場にもあてはまって、その場合は価格が賃金で量が労働者の数となる、ってのも一応。
1. 雇う労働者の数が決まれば生産物の量が決まる(生産関数)
ほんとうはもっと一般的に労働者以外の生産に必要なもの(生産要素)の数量にも生産量は影響されるんだけど、以下ではその辺は一定として考えるので気にしない。生産物というのは、例えば喫茶店だと客へのサービス全てのこと。
2. 1の関数から、雇っている労働者数ごとに、そこから1人雇う人を増やしたとき生産量がいくら増えるか決まる(限界生産性)
限界生産性というのはすでに雇ってる人数で変わってくるってのがポイント。(導関数なんだから当たり前だけど。)
ただ、今回の論争では限界生産性と言った時点で、すでに生産物の価格も入ってるようなので、売り上げ = 生産物の価格 * 生産量 ということにして
(※労働者以外の生産要素は一定として考えて、労働者だけ1人増やした場合と比べるのだけど、レストランなんかだといくら人数が増えても食材が一定じゃ生産物は増えようがないじゃない! とお思いの方は「生産物の価格」のとこを「生産物の価格 - 原材料の価格」としてくだされば以下の議論に支障はございません(売り上げと呼ぶのがちょっとアレになるけど)。)
2'. 1の関数から雇っている労働者数ごとに、そこから1人雇う人を増やしたとき売り上げがいくら増えるか決まる(限界生産性)
こっちを使う。生産したものは売れるということで、売れ残りとかは考えない。「限界生産性でなにかが決まる」といっても生産物の価格が入ってるので、価格に影響をあたえるものは、そのなにかが決まるにあたって影響することに注意。山形が循環論法とか言ってた半分はそのこと。
そして賃金が限界生産性に等しくなるということを言うのにあと2つ必要:
3. 限界生産性は(労働者以外の要素が一定で)労働者が十分に多いとき、労働者がさらに増えるにしたがって下がっていく(限界生産性逓減の法則)
限界生産性ってのは従業員が増えたときの売り上げの増え方なわけだが、その増え方は徐々に減ってくということ。
これが重要。この仮定のもとで、労働者の価格(賃金)が与えられたとすると、もしも限界生産性がその労働者の価格よりも高いとすると、限界生産性ってのは労働者以外を一定にして労働者を1人増やしたときの売り上げの増加なわけだから(上の※も参照)、
売り上げの増加 = 限界生産性 > 労働者の価格 = コストの増加
となり、つまり1人増やしたほうが利益は増える。そうして 限界生産性 > 労働者の価格 である間は労働者の数を増やしていくわけだが、3 により次第に限界生産性は下がってくるので、最終的に 限界生産性 = 労働者の価格 となるところまで増える。(論理的にはイコールでなく≦となるんだけど、これは労働力を連続的な量じゃなくて離散的な量にして、微分じゃなくて差分で限界生産性を定義したからで、あんまり本質的でもないし、大雑把に見ればイコールになるんだということで気にしないでくれ。) 限界生産性がその労働者の価格よりも低いときは、従業員を減らすとコスト減が売り上げ減より大きく、利益が増えることになるので、減らしていって結局イコールらへんで落ち着く。
というわけで、限界生産性原理が出てくるわけだがこれってどういうことだろう? 限界生産性で賃金が決まったんだろうか? 賃金は最初に与えられたとしたのに? 普通に考えて、決まったのは、ある賃金のもとで雇おうとする労働者の数だ。つまり決まったのはこの生産者の企業の労働需要(曲線)なのだ。wikipediaの労働経済学のとこにも
労働の需要主体は企業である。ミクロ経済学によれば、企業の労働需要(雇用量)は実質賃金と限界生産力が一致するように決定される。
と書いてある。(その下に賃金決定の理論というのも書いてあるがとりあえずそれはスルー。) もちろん教科書にも普通に同じ意味のことが書いてある。
ここまでくれば賃金の決まり方はわかったようなもんだ。需要と供給で決まる、ってそれは最初からわかってるか。わかったのは、限界生産性が賃金と等しくなるということと、賃金は需要と供給で決まるということの関係だ。
限界生産性は各企業の労働需要曲線を決める。そしてこれを足し合わせればマクロな需要曲線がでてくる。足すってのは価格ごとの需要量を足す。でも、なんでも足し合わせればいいんじゃなくて、同じような労働力の需要について足す。プログラマーだとか、経理がわかる人だとか、コンビニ店員ができる人(ほとんど誰でもいい)とか。あと地域もある程度限定して足すもんだろう。そんな風にすれば首都圏で働けるプログラマーのマクロな需要曲線なんかがでてくる。そしてそれと供給曲線の交点によって賃金が決まるってなわけだ。
ここで供給曲線というものにも注意。さっき、限界生産性でなにか(ってのは賃金じゃなくて労働需要曲線)が決まるとしても、生産物の価格が影響すると書いたが、賃金が決まるにはさらに供給曲線の影響もある。半分って書いたのはそういうこと。
というわけでそろそろ論争のまとめ。上に見てきたように、賃金は限界生産性に関することと供給曲線と生産物の価格(これは2'の定義だと限界生産性のとこに含まれ、2だと含まれない。けどどっちにせよ影響はする)によって決まる。山形の最初の議論は、供給曲線と生産物の価格(これらには関係がある)に関することで、それが賃金に効いてくるということだった。それに対し池田は賃金は限界生産性で決まるんだ、とイチャモンをつけた。つまり山形のそれに対する反論のとおりで批判になってない、ってことだろう。あとはなんかごちゃごちゃ言い合ってただけ。
…。まとめとかいってもすでにありふれた見解で全然面白くねーよって? そうですね。そうでした。ついでに池田の間違ってるっぽい発言を(山形はあやしいのは多いのだけど、間違ってるってほどでもない)挙げて、どう間違ってるか書こうかと思ってたんですが、もうかなり疲れてぐったりしてるので、探して挙げるのはやめます。
1つの企業だけ見れば、賃金は限界生産性によって決まるんじゃなく、世間の水準としてすでに決まってて(1つの企業の需要を足したところで影響は無いし)、限界生産性が等しくなるのは、雇う人数を調整するから。
というのが正しいのだけど、これと矛盾してるあたりです。各自で読んでください。ぼくが思うには池田は限界生産性原理のなんたるかがわかってません。山形は限界生産性自体がなんかあやしい(「各人の限界生産性を足しあわせて平均することになりますな」とか。意味が通るように「各人の限界生産性」ってのを好意的に解釈することもできるけど…)。
そういう感じの記事をいくつか読みましたけど、そもそも「文章を書く」というのは文系特有の能力なのでしょうか。そんなところにまで文系は関係ないだろうと思います。「本を読む」も同様に。
文系の学問の論文で数式や化学式を書く人はあまりいないと思いますが、理系の学問の論文で文章を書かない人はまずいません。というか、文章を書かない論文なんて論文ではありません。専門書も読まないで書く論文も然り。
大学の授業でも、「文章を書く」能力を身に付けるための文系の科目はまずありません。じゃあ何をやっているかといえば、文学に限定すると特定の人の書いた小説や評論がどんな思想に基づいているかとか、そういう内面的なものです。
文章そのものが研究材料の場合が多いので、普段からそういうものに読んでいる分だけ「文章を書く」下地もできているのかも知れませんけど。毎日数多くの人間を見ているのに人間の絵を描くことは難しいように、文章を読んでいるから文章を書けるなんて単純なものでもないはずです。
「文章を書く」「本を読む」能力は、文系理系に関わらずある程度は必ず身に付けておくべきなのではないですかね。一般教養と言えるかは分かりませんが、少なくとも理系だからといって持たなくていい能力じゃないし、逆にいえば文系だからといって勝手に取得できている能力でもない。
まあ結局、それが重要だということに関しては同じ考えですけど。肯定の意味でも否定の意味でも、そういう部分に「理系」「文系」という言葉は使って欲しくないなあと思うのです。