はてなキーワード: タワレコとは
そして、俺の記憶はよみがえるのだ。
1999RSRFESに行ったこと。
俺に、「絶対に忘れない」と言った年上の女性のこと。
それは無罪モラトリアムの初回版だった。
黄色の丸いステッカーが付いて来たのを覚えている。
大学受験から帰る飛行機の中で聴いた「正しい街」の衝撃といったら、なんて表現しようか。本当に震えた。。
その後、大学受験に失敗した俺は、塾の講師のアルバイトをしながら自宅浪人をして、二度目の大学受験に挑んでいた。
その頃の椎名林檎は「本能」が発売になり、年が明け、「ギブス」が発売されたのは2000年の1月だった。
同時発売の「罪と罰」の方が好きだった。
ギブスの歌詞に出てくる、カートはニルバーナだとかコートニーはセレブレティスキンだとかは知っていた。
でも、「ギブス」は好きになれなかった。
あなたはすぐに絶対などと云う
あたしは何時も其れを厭がるの
だって冷めてしまっちゃえば
其れすら嘘になるじゃない
嘘になるわけじゃない。ということがわかったのもつい最近だ。
年上の女性は「絶対に忘れない」と俺に言った。
俺は「それは絶対に不可能だ」と言った。
でも、その女性は
「そうかもしれない、でも、絶対に忘れない」と言った。
それが本当に嬉しくて、
俺は「そうか。それじゃあ、たぶん忘れないよ。俺も」と言った。
それから2年経過して、俺は今「ギブス」を聴いている。君を思い出している。
君の髪型がどんなだったか、どんな酒が好きだったか。きりがないけど、
黒い髪がよく似合っていたのは忘れないよ。たぶん。
俺のiPodすげぇえって関心した。
電車から降りて、君に電話したくなったけど、俺は仕事に行くんだよ。
そう、行かなきゃ。
別れ話がこじれた結果、「別に付き合う相手なんて誰でもいいんだからわざわざ君のような面倒な相手とつきあう必要はない」という趣旨の捨て台詞を吐かれてふられたことがある。結婚の話も出た相手だった。その言葉に私は自分でもびっくりするくらい深く傷つき、立ち直るまでには1年半時間がかかった。一時は誰とでも寝るということをやってみようかと思ったくらいだった。どうしてそう思ったのかはよくわからないけど、そのときはそうすると納得できるんじゃないかと思えたのだ。余計な話になるが、私の両親はとんでもなく保守的な考え方をする人達で、私は「結婚するまで処女でいるように」と躾けられて育った。つまらない冗談のようだが本当のことだ。さすがに20歳を過ぎてそれを額面通り受け取ることはできなかったが、それでも全く無視はできないという程度の束縛感はあった。だから自分がそう考えたこと自体が結構な驚きだった。
面倒な相手という点については、まあそう言いたくなる気持ちもわからなくはなかった。取り立てて異論はない。「面倒だから別れたい」と言ってもらえれば私もすんなり納得していたと思う。問題は「誰でもいい」の一言だった。我ながらいくら何でもそこまでショックを受ける必要はないだろうと思ったが、駄目なものは何をどう頑張っても駄目だった。悲しくてまともにものを考えられなかった。
時間が経って落ち着いてから、私は相手に何を求めていたのだろうとよく考えた。そして相手は私に何を求めていたのだろうと。
小学生の頃よく読んだ「赤毛のアン」シリーズに、何巻目だったかは忘れてしまったが、「人間は20歳くらいでその輪郭が決まってしまう」というような一文が出てくる。私はそれを真に受けて10代の数年間を過ごしたので、20歳くらいまでに何とか自分の方向性を確立しなければならないという強迫観念があった。そして20歳になる頃には本を読んでばかりいる生意気な理屈好きの小娘になった。ある時期からは手に取った本に書いてある映画を見て音楽を聴くようにもなった。村上春樹を読んでビーチ・ボーイズを聞きイオセリアーニやアルトマンを見るようになった。アーヴィングからヴォネガットに手を出し古典を読むようになった。そのうちペーパーバックも読むようになった。新しいものを知るたび少しずつ世界が広がっていくように感じられ、すごく楽しかった。でもそういう楽しみを誰かと分かち合うことはなかった。私の属しているところではそういうのは何と言うか、知的な気取りの一種のように見なされていたからだ。私は1人で図書館にこもり1人でタワレコに通い1人で映画館に出かけた。両親は極端に人付き合いが悪い娘にひとしきり説教を垂れたが、私としてはそれに特段不自由を感じなかった。友達がいて知り合いがいて1人の時間がある、それのどこが問題なのかと思っていた。確かにそういうのは客観的に見てあまり魅力的な姿とは言いがたかっただろうが、私は毎日いろいろと必死で魅力などというものについてじっくりと思いを巡らす余裕はなかった。そんなことについて考える暇があるなら丸善まで出かけて本棚を物色する方が100倍楽しい。私は何かの答えをそれなりに必死になって探している最中で、魅力なんてものは後回しにしておけばいいと考えていた。
一方、というか当然というか、私は「若い女性」という自分の属性にどうしてもうまく馴染めなかった。若い女性であることをすごく窮屈に感じた。そしてその窮屈さをなかなか言葉に表すことができなかった。人並みにフェミニズム関連の本も読んだけど、それはどれも目の前のあまりにもベタな現実とはうまく切り結ばなかった。例えばがつがつと本を読む若い女性は私の周囲にはいなかった。有り金全部を使う勢いで映画を見る若い女性もいなかった。本当にものの見事に誰一人としていなかった(たぶん趣味に関して引きこもっていたせいだろう)。私の周囲では、一般的に若い女性はそういうことはあまり好まないものだという観念が割と根強くあった。そういうのは趣味として上品に嗜む程度に留めておくべきものであって、没頭するべきものではなかった。もちろん若い女性の精神分析の専門家だとか映画監督だとかいう人がいるのは知っている。統計の授業を担当なさった先生はUCLA帰りで、とんでもなく優秀な上におよそ文化と名の付くものなら何にでも博識な女性だった。でも彼女たちは言ってみれば「私の履歴書」みたいなものだった。自分に特段優れた才能が備わっているわけではないことにはとっくに気づいていたので、それらはただ単に雲の上の出来事でしかなかった。たぶんそういうのは選ばれた若い女性だけに許された特権なのだ。それに特権を維持するのは見るからに大変そうだ。そう思っていた。私は自分の置かれた状況にはそれなりに満足していた。家族は私に呆れながらも基本的には好き勝手にさせてくれていたし、友達も私がよくわからない何かにかまけているからといって意地悪をするようなこともなく優しく放っておいてくれる。環境にはずいぶん恵まれたと思っていた。もし私が男の子だったらもっと堂々とできたのかもしれないが、男の子は男の子でいろいろと大変そうだとも思った。ここから出て行きたいとは思わなかった。うまく言えないのだが、どこかにあるはずの理想の地を探すことではなく、今いる場で何とか居心地のいい状態を確保することの方が建設的な考えのように思えた。
そんな状態にもかかわらず、お付き合いする相手が現れることがあった。縁があったのは同級生や会社の先輩といった人達で、音楽や映画の話がきっかけになることが多かった。好みが似ている人とは話がしやすい。自分が基本的に聞き手に回ることしかできないとしても、親しみのある世界の話ができることはとても嬉しかった。社会人になってからはなおさらそう感じるようになった。女の子同士がお茶だけで何時間でも話しまくるように、好きなことの話だけで1日中笑ったり驚いたり考え込んだりできるのは本当に楽しかった。でもそれと同時に、1人で楽しむことを選んだ領域に人を介在させるのは少し怖いことだと感じた。そこでは1人で過ごすことを選んだはずだ。そのルールを変えたりしてひどい目にあったりしないだろうか。でもひどい目ってどういうことを言うのだろうか。よくわからなかった。でも、はっきりと意識に上らないくらいぼんやりとした一瞬の感覚だったにもかかわらず、その嫌な感じはなかなか消えなかった。
相手との距離が近づいてしばらくすると、私はびくびくするようになった。付き合い始めて1年も経つと、仲良くなるきっかけだったはずの私の趣味嗜好のようなものが、次第に相手を苛立たせるようになってきたのがはっきりと感じられた。私が何の気なしに漏らす一言に相手がすごい剣幕で「普通の女の子はそういうことは言わないものだ」と怒り始めることも珍しくなかった。その都度、私がどちらかというと普通じゃないことは私もあなたも承知しているはずだったと思いますが、あなたの言いたいことはたぶんそんなことじゃないんでしょうね、と思いながら黙って聞いた。自分でこんなことを言うのはばかみたいなのだが、私が縁あった男性は目立たないけれどしっかりしていて人の気持ちを察するのが上手な人達だった。どうしてそんなに人当たりがいいんだろうと思ってよく見てみると、誰と接するときでもフェアであることを優先させているのがわかった。女の人からの評判はよく(ただし決してモテるという訳ではない)、マッチョな男の人からは幾分軽んじられているふしがあった。そういう人をここまで怒らせるからにはたぶんこちらに非があるのだろう、と私は思った。だから相手を怒らせそうなことは片っ端から控えるようになった。でも、そうなるとそこにあるのはただの力関係だけだ。会話の内容が当たり障りのない世間話のようなものになり、映画館やレコードショップを避けて出かけるようになり、そうして程なくして別れることになるのだった。
相手の年齢や社会的な属性が違っても別れる理由は同じだった。ある時の別れ際に冒頭のことを言われた。私がショックだったのは、いつの間にか関係がすっかり塗り替わってしまっていたことだった。友達の延長みたいにして付き合い始めたつもりだったのに、それとはかけ離れた関係を作り上げていた。最終的に私は規格外の若い女性でしかなかった。更にショックだったのは、「誰でもいい」と言われて最大限に傷ついている自分だった。仲良しの友達に言われたとしても十分ショックなフレーズだとは思うが、私の受けたショックはそれだけでは説明がつかなかった。付き合っていた相手にだけはコンビニで飲み物を選ぶように私を選んだと言ってほしくはなかった。でもいつの間にかそうなっていた。相手が最終的に私に求めたのは女の子らしい女の子であることだった。それと呼応するようにいつからか私も、私が私であることの担保を相手に求めるようになっていた。いつの間にそれを求めるようになっていたのか、自分のことなのにまるで理解できなかった。付き合い始めた時の気持ちははっきりと思い出せるのに、その時は担保なんて関係なく楽しいことや嬉しいことはその意味を意識する必要もなくシンプルにそれだけだったはずなのに、見た映画に興奮して渋谷から千駄ヶ谷まで意味なく歩いてしまった私は相手に会うとうまく口がきけなくなっていた私とまるで矛盾なく同じ私だったはずなのに、それらがきれいさっぱり失われてしまっていることがうまく飲み込めなかった。でも、お互いに求めるものがそれだけになった時点でそこにはもう役割だけしか残っていない。確かにそうなってしまえばいくらでも代わりはいるのだ。お互い相手にその望むものを差し出す余地がないのは嫌になるくらいよくわかっていた。何だか騙されてたちの悪い契約を結んでしまったような気分だった。でもそれに荷担したのは他ならぬ自分だったのだ。
自分はニートで暇なのでニュー速にいたのですが、ニートながら2chで過ごす時間の無駄を激しく感じ、
TerminalとかViとかよくわかんないやつ使ってnamidame.2ch.netに自ら接続出来ないようにしました。
(自分はシステムの事はさっぱりわからないので、実行するときと同様戻すときもググらねばならないダルさがあるから2ch抑止効果あるのだ)
たまたまはてなを見つけ、マッチョvsウィンプっていうのを楽しく観戦してたのですが、
なんでここまで平行線なんだろう?と思ったのでちょっと自分の意見を書いてみます。
要は物事が起きたときどちらを選ぶか、って事だけなのでは。
たしか土居健郎著『「甘え」の構造』の前書きに書かれたエピソードの中で、
著者がアメリカに留学したとき招かれた家で飯をご馳走になった際、
食後の飲み物はいるか?いるんだったらコーヒーにするか?それとも紅茶なのか?
コーヒーだったら砂糖とミルクは使うのか?砂糖を使うのだったら何個使うのか?
ミルクを使うのだったらどのくらい使うのか?それは何ミリリットル使うのか?
と、日本人ならナアナアで済ます事を外人がしつこく聞いてきてカルチャーショックを受けたみたいな話ですが、
マッチョな人は何事も無かったように全部自分で選択して、何事も無かったように会話を続けるだろうし、
ウィンプな人は途中でかったるくなって、めんどくさいからもうどうでもいいっすよ、と席を立つんでしょう。
常に取捨選択すんのってマジかったるい。だから自分はニートなんですけど。
ウィンプとか言われた人は仕事辞めないでデスクに齧り付くだけ全然偉いっすよ。
全然マッチョっすよ。逞しい兄貴ですよ。だってもし俺だったら速攻でケツ捲ってるだろうし。
たぶんウィンプの人は努力を尽くしてヘトヘトになっちまって同意のコミュニケーションを求めてたんだけど、
予想に反して「さらに努力すればいいじゃん、今までよりさらに取捨選択すればいいじゃん」っつー、
超越マッチョな現実的対応策が帰ってきたから、ダンコーガイに反発しちゃったという。
マッチョな髭兄貴ダンコーガイは、指名された嬉しさと勢いでついつい余計な事(失礼)を言っちゃっただけなのでは。
マッチョは相手の気持ちを察する事より、目先の問題の具体的解決法を提示したがる生き物。
ウィンプはそんなことより俺超大変だったんだよ疲れちまったよ聞いてくれよ、ってただ聞いて欲しかっただけ。
すれ違って当然っしょ。そりゃどっちも当惑するよー。俺からすりゃどっちも偉いよ。どっちも真似できねー。
つかマッチョも悪くないぞ?スタジオで脚もつれる自分はカッコ悪いけど、プロテイン飲むの楽しいぞ?マズいけど。
もうマッチョになった気で、アミノ酸とか調べ始めちゃって。今日もガチムチしてくるぜ。
ウィンプの人はもう疲れっ切っちまったんだろうから、何も考えないでゆっくり休める時間を取ってください。ヨガとかオススメ。
取捨選択できる気力が十分に溜まってきたら、また戦い始めりゃいいんでないですか。休みすぎな俺が言うのも余計なお世話だと思うけど。
マッチョな兄貴達はこれからも俺らを激しく叱咤激励してください。最大音量でガンガンにターボキャンプ続けてくれ。でも時にはスルーしないとめんどくさいのでは。
めんどくさいことをめんどくさいと思わないのが兄貴たちのいい点であり悪い点なのかも。
・安室ちゃんのシングルと『リスに恋した少年』をタワレコで買う
・『「甘え」の構造』を前書きで飽きないでもっかい読むため三省堂で買う
RYOJI & THE LAST CHORDSが、大変格好良かったのです。POTSHOT好きじゃないけどこっちは好き。あとはもちろんゆら帝。あんなに綺麗でメロディアスでなんでウンコの歌なんだ。格好良すぎる。
ポップパンクに燃えます。ラウド過ぎないロックも素敵なものです。とはいえ遡って聞く程音楽好きでもないので、最近のバンドや曲「しか」知りません。興味ないのよごめんあそばせ。趣味でも教養でもないものを知り尽くそうとしないのは、さすがに恥とは思いません。がなり声は好きですが、金切り声は苦手。シャウトは好き。酒焼け、煙草でかすれた声はセクシーです。酒飲み喫煙者が好きかと言われたらそうでもないんですが。
なんでこんなことを書いてるかっていうとさ、切ないロックは恋の味がするし、走るパンクは初恋の匂いだよねみたいな話。小難しいこと考えてないで、恋をしようとか思った。新しい恋を始めるんだ。始めたい。男の人の素敵なところを見つけよう。そんでもってその人が私のことを好きになってくれると良いな。
大学入って軽音サークルに顔出してビビったのが、ロキノンジャパンで表紙を飾っているくらいのミュージシャンでも「マイナー」だと思い込んでいる奴に会ったことだった。それも複数名。「自分より音楽詳しい人に初めて会った」って、君が話題に出した固有名詞って、タワレコだったら全店でパワープッシュされてるくらいの奴等じゃん? そりゃ東北地方じゃ学年に一人しかファンがいなかったかもしれんけど、普通に都心部ならメジャーだろ、そんなん。それぐらい想像力働かせろよ。あ、そんなことも想像できない鈍感さだからここにいるのか。はははー。メンゴメンゴ。
んで、そういう奴等と差異化を図ろうとする奴等が挙げる名前も、サブカル野郎御用達の大御所だったりしてね。ふーん、ザッパ好きなの? ウォン・カーウェイの映画で知ったんだー、へー(死ねばー)。へー、最近クラブ通いが楽しい? ふーん。アンダーワールドはアンセムですかー(死ねばー)。ジャズにハマってる? マイルスはやっぱりエレクトリック・マイルス時代がいい? へー(死ねばー)。ナゴム好き? はー。人生は最高なんですか。へー。卓球はベルリンでイベントもやってて凄い? ケニシは神。へー(死ねばー)。スターリン? 頭脳警察? いっぺんでいいからラリーズが聴いてみたい? ジャニスでも行けばいいんじゃん? 東京にいるんだしさ(死ねばー)。へー、ハードコア好き? ナパームデスが凄い? 何、まだ一曲が短いとかいう話はネタに出来るんだー(死ねばー)。プログレ? へー。クリムゾンのブートが凄い? できるもんなら60年代と70年代にヨーロッパにいたかった? へー(死ねばー)。最近ハルヒが熱い? I'veはいい曲書いてる? へー(死ねばー)……みたいな。
勘違いして欲しくないけど、別に個々の音楽が好きなことはどうでもいいのよ。勝手に好きであればいい。好きなものは好きだからしょうがない。
ただ、それを自慢気に差異化ツールに使う割にぬるいアホは全て死ねばいいと思うだけ。マニアック気取るならその場の誰もを置いてけぼりにするくらいわけのわかんないネタを使えよ、と。ぬるいことしてんじゃないよ、と。
まあ、なんとはない。
の本日付朝日新聞の巽孝之による書評を読んだらば、これは久しぶりな「必」読書かと思って、近くのショッピングモール内紀ノ国屋に行ったらば、「カルチュラルスタディー」も「言語学」のコーナーもないので、あるはずもなく、とりあえず出て行ってタワレコ入ってみれば、
を見っけたので、何とはなしに購入。
でうろとろして帰宅せばいと徒歩すれば、突然老人が「○○○○はあとどれ位かかるのかねぇ」と徒歩では数時間かかる場所を尋ねてきて、「実家は誰もいーへん」だとか「100円玉が入っとる思ったら数十円しかなかった」とか言いやがって、どうしたいんだろうともわからず、この場から離れるために300円をこの老人のために渡してしまった。
故に、金銭感覚の非境界性、なのだ。