はてなキーワード: おおやにきとは
http://anond.hatelabo.jp/20091128040524の件について。
署名を呼びかけるチラシの中に、以下の一文があった。
この「不可能になる」とはどういうことなのかについて、おおやにきの人が「漢方薬と事業仕分け」(http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000671.html)と題して記事を書いておられる。
このエントリによれば、保険適用除外になった分の漢方薬は、医師が処方することは困難になる。なぜなら、現在の混合診療禁止の原則の下では『健康保険が適用される部分とされない部分が混在することは許されていない』から、だそうだ。すなわち、保険適用外の薬を組み合わせると、他の医療行為も含めて全て「自由診療」扱いになってしまうので、医者は適用除外分の漢方薬の処方箋が書けない、と。
この混合診療問題、上のチラシでは一言も触れられていない。おそらく、医師の世界では言うまでもない程の常識ということなのだろう(他の反対声明では触れているものもあるかもしれないが未確認)。
というわけで、混合診療問題についてもう少し詳しく調べてみた。といっても、Wikipediaなわけだけど。
http://ja.wikipedia.org/wiki/混合診療(リンクがキーワード化されて涙目)
これまで「原則」と書いたが、そもそもの問題として、「混合診療の禁止」を明文化した法律は存在しないそうだ。また、この原則の妥当性そのものについても、ここ数年の間にも何回か議論があったらしい。例えば、「海外で認可されている新薬が日本では~」みたいな話とか。
混合診療問題についての詳しい議論は、Wikipediaを参照して欲しい。一読して気づくのは、医療保険制度においては、保険診療≒「国として有効性と安全性を認めた治療」であることだ。当たり前といえば当たり前だが。
加えて、その枠外から外れるタイプの医療を、原則的に認めないという姿勢が明らかだ(一応「先進医療」「選定療養」という例外はあるのだが)。混合診療禁止側の言い分としては、保険適用外の治療を認めると患者の安全を保証できないからダメだ、ということになる。そういう姿勢だと、藁にもすがりたい患者が、逆に「お上が認めない画期的治療法」に流れたりしないんだろうか、という気もするのだけれど。
rna 医療, 政治 エビデンスが出せない薬があるから議論の方向性によっては「十分な議論」をしたら必然的に負ける。かといってプラセボとしての有用性とか公開の場で議論は無理。国民の声を背景に曖昧決着が落としどころでは? 2009/11/28
http://b.hatena.ne.jp/rna/20091128#bookmark-17606220
つまり、漢方薬には「有効性と安全性」を証明できないタイプの薬があるらしい。あと、他の増田が書いた「漢方薬に保険が効くようになった経緯」http://anond.hatelabo.jp/20091128145746では、漢方薬の保険適用については、かなり政治的な働きかけがあったという話が出ている。
ここでは、漢方薬の医学的に効果があるのか云々という話には踏み込まない。俺の専門外だし。ただ、事業仕分けによる、(一部の)漢方薬を保険適用除外にすべしという結論については、以下のうち、どちらかの施策を同時に行う必要があるのかもしれない。
俺は、基本的に事業仕分けには賛成の立場だ。「仕分けの基準が一面的だ」みたいな批判は散々あったが、どんな事業にせよ「一面」としては公の利益に資する部分があるのは当たり前だ。それとは別に、不合理だったり非効率だったりする「一面」を徹底的に検証することは大事だ。「素人に何が分かる!」では、それを言う専門家が依拠する「一面」が絶対的なものであることの証明になりはしない。
一方で、今回のように、どうやら予算削減と同時に制度的な手当てが必要であることが見えてきたものもある。大仰な言い方をすれば「グランドデザインが見えない」ということではあるが、要は、予算はそれを運用する制度と一緒に考える必要があるという単純な話だ。
事業仕分けという、国民に公開された形で金銭的な部分の効率性を追求する試みは、今後も継続して行うべきだ。一方で、予算配分の変更に伴ってどのような制度設計が必要か、議論する場も必要なのは疑いない。むしろこちらの方が大変だろうが、政権の、そして我々の今後の課題だろう。
一種のヒステリーを引き起こさせる何かでしょう。
おおやにきとか
http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000515.html
bewaadさんの所とか
http://d.hatena.ne.jp/bewaad/20080410/p1
で、今回の法案の技術的な正しさが指摘されていて、なんかそれでも「もっと穴のない反対意見を形成しないと」みたいなながれになっているような気がするのですが、本当にこの法案を潰したいのならこういう「正しい意見」に引っ張られる必要はないんじゃないかな?
人権擁護法案は今まで反対運動で二度も潰されてきたけど、それは反対派の意見の正しさによって潰されたわけじゃないでしょ。
「人権擁護委員が秘密警察になる!」とか「在日が日本を支配する!」とか決して「正しい」とは言い難いヒステリックな意見で潰されましたよね。確か、法律的にそんな問題はないと主張した小倉弁護士のブログは炎上しまくってたはずです。
例えばこのエントリー → http://blog.goo.ne.jp/hwj-ogura/e/e310fc410c67d99096096756d883fbaf
そしてこのヒステリー的な反対意見は結局最後まで力を持ち、一部の自民党議員もこうした意見に動かされて人権擁護法案が葬り去られましたよね。
だから、反対派の人々は何かヒステリー的な反応を起こさせるような意見を探すべきなのかも。
と、ここまでは少し煽り気味に書きましたが、もしこの通常国会で法案が提出されることが確実なら、今必要なのは意見の表明よりも署名集めとかの具体的な行動なんじゃないですかね?
僕は、輸入盤CDの運動のときかなりがんばって700人分くらい署名を集めて(ライブ会場の前で署名集めたりもした)、それでも法案が成立しちゃって当時はすごい落ち込んだものでした。あと、一歩で法案修正まで行けた感じだったし、付帯決議とかってあんまり意味がないと思ったからです。
でも、いまだに輸入盤がほぼ普通に買えている状況を考えるとあの署名は無意味じゃなかったのかもしれないし、実際、 33,057名の署名が国会に行ったんですよね。
http://www.shugiin.go.jp/itdb_seigan.nsf/html/seigan/1592940.htm
参議院で野党が多数ということを考えると、10万くらいの署名があれば民主党の態度を変えて廃案に持ち込める可能性もあるような気がするのですが。
ヤミ金被害が急増しているらしい。 | bewaad institute@kasumigaseki←→闇金融の繁栄について (おおやにき)
元記事からすると、相談と被害とは、あまりつながっていないような記がするが。
私の想像だが、弁護士職能集団の目標として、ふくれた生活の早い段階での矯正を目指しているように見える。
それを是認しないというのは、どうなのかねえ。
http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000417.html(おおやにき)
つまり私は、棄権も白票も同じくnon commitment (関与なし)であり、その意味するところは双方に0.5票ずつ加算するのと同じだと、こう理解している。non commitmentに独特の意味を認めないこのような視点からは、たとえば朝日前掲社説に以下のように言われても……
仮に投票率が4割にとどまった場合には、最低投票率の定めがなければ、有権者のわずか2割の賛成で憲法改正が承認されることになる。それで国民が承認したとは、とうてい言えまい。
なんで? と真顔で聞き返すしかなくなる。投票しなかった6割は半分支持・半分不支持と計算されるので賛否双方に3割ずつ加算されることになり、すると2割+αが積極的な賛成票を投じているのであれば合計して賛成者は5割+αになるではないかと、そう思うわけだ。積極的な意思表示をしなかったことは、賛否に中立としか捉えようがないではないかと。
へんな論法。真顔で聞き返すということは上記のロジックは自明であろうという前提が垣間見られる、が。。。
「non commitmentに独特の意味を認めないこのような視点」を自明のものとしてとらえていいのであれば、わざわざ視点を提示することもなかろう。
私の感覚では「投票しなかった6割は半分支持・半分不支持と計算される」という、国民審査類似のなロジックほうが不自然に感じる。
ことに憲法は有権者のコミットメントが正統性を担保する非常に重要なファクターであるのだから、朝日新聞の主張のほうがわかりやすい。真顔で聞き返すほどのへんな主張とは思えない。