物語が存在する理由のほとんどはそのことに起因する。
なぜ聖書という形にして信仰の理由を説明しなくていはいけないかも同じだ。
人は物語により物事を理解する。
ゆえに逆説的だが自分の心の中で物語を創作するものは
その物語の中に自らを閉じ込めることになる。
人と人との誤解などというものは結局はそういうことだ。
良い感情も悪い感情も物語から始まる。
そのことは心に留めなければならない。
さらに言うなら私達が自らの人生と思い込んでいるものも
ひとつの物語を信仰することによる。
別に昨日のあなたと今日のあなたが同じである必要など無い。
社会的に必要である事柄ならば仕方がないが
そうでなければ、
例えばあなたの心の中の政治的心情なんて
誰にも覗き見ることは出来ないのだから
整合性なんてとれていなくても全く問題ないし
実際のところ整合性なんてとれていない。
しかし、私達はそのようには感じない。
自らの物語の中に囚われているからだ。
その物語を書き換えるためには新しい物語を必要とする。
そういうものだと思う。
これが正しいかどうかはわからない。
が、いくつかの真実は含んでいると思う。
しかしそれでも多くの人はこの話を上手くは理解できないだろう。
なぜなら、この話は物語ではないからだ。
Permalink | 記事への反応(0) | 21:20
ツイートシェア