夜の密度が歳を重ねるごとに薄くなっているように感じる。夜から真夜中にかけて気分が滅入ってくるような下り坂の勾配を最近は感じない。感情の起伏が平坦なまま朝を迎えることなんてザラにある。ルーティーンな経験ばかりになっているゆえなのだろうか。それとも、夜の密度なるものは思春期特有の視野狭窄からくる単なる心理的なストレスにすぎないのだろうか。
夜中に自分が考えることは朝起きたら大したことではない、と自分の思考能力や感性を否定しつつ、夜の感性を否定しきれない昼間の自分もいる。昼間の自分じゃ文章なんて、恥ずかしくて書けないからだ。本当は恥ずかしいのではなくて、ものを考えたくないのかもしれない。自分の耳が痛いことを遠ざけたくてしかたないのかもしれない。文章を書くことは、単に考えをまとめるだけではなくて、その最中ずっとその議題について考えることだからだ。
だから、そんなに書くのが嫌なことなのにも関わらず、書いて逃げないようにする、そのためにはやはり夜の密度が必要であるように思う。まともじゃないなりにレベルを上げていくということがきっと目指すべき方向性なのだろう。
夜が明けるのが早いのは、夏の良くないところかもしれない。