仕事が現環境に変わってから誰のせいにもできない、誰も悪くない、これは仕方のないことなんだということが増え続けて3年が経った。実際本当にそんなことはないが特に責めたところで改善もしないだろう相手からの形だけの謝罪は聞きたくなかった。 強いて言うならそんな選択をした自分自身が悪いのだと自分に言い聞かせ続けた。半年、1年と時間が経つごとにいくらなんでも仕方ないと思うにしたって限度があるのではないかという疑問が生まれ始めた。それをも押し殺して仕事は続けたが一度抱えてしまった疑問は消えてはくれず、ただ感情を切り捨てるしかなくなっていた。
そこにコロナが来て、根こそぎなにもかも消しとばしたのだ。俺の生活、将来、仕方がないと思っていたことさえもすべてだ。始めは生活が厳しくなったことを憂いたがそれよりも、これでやっと「何もかもが吹き飛んでしまったのはコロナのせいだ」と言えることに気がついた。そうだ、コロナは自分の知っている誰かではない。怒ったところで謝らせることもできないが、これに怒っているのは自分の身勝手な怒りではなく誰しもが当然のことだと思うだろう。誰かのせいにできるということがこんなに清々しいとは思いもしなかった。この感情が貧しいことは自分でもわかるがどれだけ何かのせいにできることがよかったか、これでどれだけ心が安らいだかは言うまでもない。
もちろんこのまま居座られると自分の生活が危ないし世界的に色々まずい。それでもこいつがいなくなってしまったら俺はまた何のせいにもできない日々に戻されるのだと思うと非常にキツい。
大塚英志が「初心者のための文学」で、太宰治の小説を題材にして、同じようなことを書いてた気がする。