2018-01-26

自己否定の果て

自己否定簡単自己保身だ。

予め自分はこんなものだ、自分はこの位しか出来ないだろうと思っておくことで、失敗してもそう大して傷付かないし、成功すれば意外と上手く行ったと喜べる。

その他にも、怒られたときなどに、自分はその程度の人間だと思うことで、自分が傷付くのを軽減できる。

ただ、それを続けていたらどうなるか。

自分が縋れるものがなくなっていく。自分が縋れるものに対して、自分努力しているものに対して、それら全てに対してその自己保身の為の否定をしていたら、その内それらは縋れるものでも、誇れるものでもなくなっていく。

そんなもの無くたって大丈夫だ、その程度しか出来なくて当たり前だ。そんな事を思う事で、否定されたり上手くいかなかったりした時も傷付かなくなるが、それらが自分にとって無価値もの、喜びのないものになっていく。

楽しいことが楽しくなくなる。努力していたものが無価値になってくる。

気付けば、縋れるものなんてそう無くなっている。でも、じわじわと蝕んでいたその自己否定という毒は既に習慣となって、もう自分本質に取り込まれているようなものとなって、その時には外せなくなっている。

そして、自己否定は間違いだったと気付く。

否定されても跳ねのければ良い。失敗したらもっと頑張ればいい。そんな心の強さを持っていなかった、持とうとしなかった事自体が間違いだったのだと。

そうして、自己否定してきた自分さえも、自己否定する。自分本質さえ否定してしまう。

自分への価値を見出せなくなる。

自分の代わりなんて誰だって務まるし、居なくたって問題ない。希死願望にさえ繋がって行くかもしれない。

自己否定して、自分への価値を見出せなくなった人間は何をするのかと考えると、三つほどあると思う。

心機一転して努力し始める。それが最善だろうが、そこまで行った人間のどれだけがそれを出来るだろうか。

周りを否定することによって自分価値相対的に高めようとする。結局、努力を怠って、この程度だと思って来た人達の中には、その簡単な道に逃げることもあるだろう。

それでも自己否定する。否定して否定して、何の目的も夢も持てずに、ただ空っぽのまま生きていく。今の自分だ。

まだ、縋れるものはある。努力しているものもある。でも、それも捨てたいと思う時がある。

何も考えたくない。ただぼうっと生きていきたい。

そんな事をこの頃良く思うようになった。

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