予め自分はこんなものだ、自分はこの位しか出来ないだろうと思っておくことで、失敗してもそう大して傷付かないし、成功すれば意外と上手く行ったと喜べる。
その他にも、怒られたときなどに、自分はその程度の人間だと思うことで、自分が傷付くのを軽減できる。
ただ、それを続けていたらどうなるか。
自分が縋れるものがなくなっていく。自分が縋れるものに対して、自分が努力しているものに対して、それら全てに対してその自己保身の為の否定をしていたら、その内それらは縋れるものでも、誇れるものでもなくなっていく。
そんなもの無くたって大丈夫だ、その程度しか出来なくて当たり前だ。そんな事を思う事で、否定されたり上手くいかなかったりした時も傷付かなくなるが、それらが自分にとって無価値なもの、喜びのないものになっていく。
楽しいことが楽しくなくなる。努力していたものが無価値になってくる。
気付けば、縋れるものなんてそう無くなっている。でも、じわじわと蝕んでいたその自己否定という毒は既に習慣となって、もう自分の本質に取り込まれているようなものとなって、その時には外せなくなっている。
そして、自己否定は間違いだったと気付く。
否定されても跳ねのければ良い。失敗したらもっと頑張ればいい。そんな心の強さを持っていなかった、持とうとしなかった事自体が間違いだったのだと。
そうして、自己否定してきた自分さえも、自己否定する。自分の本質さえ否定してしまう。
自分の代わりなんて誰だって務まるし、居なくたって問題ない。希死願望にさえ繋がって行くかもしれない。
自己否定して、自分への価値を見出せなくなった人間は何をするのかと考えると、三つほどあると思う。
心機一転して努力し始める。それが最善だろうが、そこまで行った人間のどれだけがそれを出来るだろうか。
周りを否定することによって自分の価値を相対的に高めようとする。結局、努力を怠って、この程度だと思って来た人達の中には、その簡単な道に逃げることもあるだろう。
それでも自己否定する。否定して否定して、何の目的も夢も持てずに、ただ空っぽのまま生きていく。今の自分だ。
まだ、縋れるものはある。努力しているものもある。でも、それも捨てたいと思う時がある。
何も考えたくない。ただぼうっと生きていきたい。
そんな事をこの頃良く思うようになった。