2013-10-16

加藤周一のことを考えていると、彼の話の是非はさておき、彼の周りには語るべき時代・語るべき社会構造がはっきりと存在したのだということを意識させられる。

加藤に限らず、そうした構造に掻き立てられて多くの小説評論は生まれてきたのだろう。

現在ではそうした社会構造霧散し、イデオロギー対立もなくなり、ふわっとした時代になってしまった。

それと期を一にしているのかそれとも偶然なのか、私や周りの人は日々特に考えなしに「つぶやき」を重ね、時に「考察」なんていわれるようなことも書いている。

それでいいとは思わない。ぶっちゃけ文章やその根本となる発想の仕方を見てても面白くないのだ。面白いという明確な根拠がないのだ。

そんな時代からこそ違う意味面白いのだろうが、ちょっと時折さみしくなる。

おいらっちノンポリなんですよ~」と臆面なく言える人が、はたして面白い文章かけるのだろうか?

ふわっとした時代が当たり前で、それについて無自覚な人間面白く物事を捉えられるのだろうか?面白く生きられるのか?

本当に何も考えずに気軽に思ったまま「つぶやき」していいのか?思考の在り方が時代鋳型によって定められていることに無自覚すぎやしないか

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