2013-06-13

哲学科に通って4年間で気付いたこと

 哲学科を卒業したのは十年以上昔のことになります

 哲学科に入ったのは本当は二年からなので、実質3年間しか通えてないんだけど、でも一年の時も一応哲学系の授業には出てたので4年ということにしときたい。


 いや、結局気付いたのは以下のことです。

 何というか、こういう言い方をすると、「そんなのは哲学じゃない!」とか、「青臭くて見てらんない……」ってな意見が寄せられそうなものですけど、それは覚悟の上で言いたいと思います

 結論から書こうと思います。僕が言いたいのは、「本当の自分になる」ってことと、「自分以外の何かになる」っていう二つのことは、結局同じことなんだってことです

 ただ、言い方が違うだけで、この二通りの言葉が指していること自体は、何も変わらないんだってこと

 でも、僕たちはそういう二通りの言い方を、ついつい別のものとして意識してしまう。だからこそ、僕らには自由が無くなる。言葉からは力が失せていって、どこまで行っても同じ問題に終始してしまうような絶望感を、延々と味わう羽目になる。

 つまり、それが絶望、っていうことであり、そして同時に、不自由ってことでもあるということだと思うんです。


 それで、このことに繋げて俺は〈自由〉ってものについても一言いいたいんだけど

〈自由〉っていうのは、つまり、上の二通りの言い方が指しているところのものから、自由であるということなんです


 自由というのは、何かに対する拒絶を指しているのではない

 自由というのは、何かに対する受容を指しているのでもない


 そういう二通りの言い方が指しているものから、とにかく自由であること。自由に選択ができるような状態にあること

 それが〈自由〉っていう言葉の指す意味だと思うんです。

 その場所から、ただただ逃げ出すのでもなく、そこにただ留まって、運命を受け入れるのでもないという、そういうスタンス


 そういう在り方のようなものを、自由っていう言葉で表すんじゃないかと、ふと、あそこを卒業して今更になって、そんなことに気付いたんです。何というか、僕はその二通りの言い方の間に挟まれて、ずっと長い間、十何年もの間、不自由でいたような、そんな気がしま

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