2013-02-17

コミュ力よりも、なければ生きていけないのはリテラシー能力だと思う

つのからか、文章が書けなくなった。

まともな構成の、まともな分量の、まともな文章が、書けなくなった。

苦労して書いた文章は、意味なく長いか意味を生み出せないほど短いかどちらかだった。

構成はないし、公正でもなかった。

同じように、読むこともできなくなった。

筆者が何を云ってるのかよく解らなかった。分かった振りをするので精一杯だった。

これは比喩でもなんでもないし、何も暗示はしていない。

ただ、能力が衰えた、それだけのことだった。

あるいは、然るべき成長をとげなかった、それだけのことだった。

そして、それでも問題がない環境にいたということだった。

いや、本当は問題があったのかもしれないけれど、それに目を瞑っていたのだった。

もっと正直に云えば、怠けていたのだ。書くことを、読むことを。考えることを。生きることを。

でも今私は、ちゃんと生きたいと思う。そう思うようになった。

理由は別に云う必要はないし、たいしたことじゃない。

ただ、そう強く思った。

から考えることを、読むことを、書くことを、もう一度。初めから始めなきゃ。

というわけで、先日から日記を書き出した。

ブログとかそういうんじゃなくて、紙に。

ハードカバーの人文系専門書で、落丁・乱丁本というのかな、全てのページが真っ白なのがあって、

売れないしどうしようもないしあげるよ、ということで以前頂いたそれを日記として使って。

私は四捨五入したら30で、もう若くはないけれど、やはり現代人、キーボードに慣れすぎたのかな。

ペンで文章を書くのは困難だ。漢字がスッとでてこない。腕が疲れる。

字に自我が現れて、自分のものなのに気持ちが悪い。

ペンで書くことに拘りがあるわけじゃない。ただ、辛いほうが頑張ってるような気分になれるからってだけで。

そういうのってどうなの?って自分でも思うんだけれど。まぁ、いいか

とにかく、文章を書くことは難しい。

まるでどこにも辿りつけそうもない。

こんなことして何になるんだという気がする。

でも、だからこそ、意味がある行為のような気もする。

書くとは、読むとは、そういうことなのではないか、と。

執筆とは、読書とは、闘いなのだ、と。

考えること、生きることとはそういうことなのではないかと。

ああ、ならばその辛苦と歓喜を私にも。

とかなんとかいって、別に私は、執筆とは、読書とは、何ぞやなどと云いたいわけではないし、

その苦しみだとか、楽しみだとか、知らないよ、そんなこと。

何で私はこうまでしなきゃまともに読み書きすらできないんだろう、って。

何でみんなそんなにすらすらと文章が書けて、読めるんだろう、って。

ただただそれが不思議なんだ。

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