「嫌う」という感情は、好きと同じだけの感情のベクトルが生じていることを忘れてはならない。
もはや常識レベルの事実だが、「好きの反対は無関心」である。嫌うという声明はただ己の低能ぶりを晒しているだけである。
しかし、無関心になる手段としての「確認作業」が勘違いされるパターンは実にやっかいだ。
最終的なゴールはあなたに対する完全なる「無関心」ですよとその対象にお伝えできないジレンマ。
集合住宅の廊下で同じ建物に住んでいる人間に出くわさないよう、ドアスコープを覗く。
それは「いない」のを確認するため。彼らのパーソナリティになど微塵も興味が無い。
道ですれ違う、敵意むき出しでヒール鳴らして歩く不細工女。「見るんじゃねえよ」と言いたいのか
視界の隅で確認できるほど過剰に裾を気にする30過ぎのババア。否が応にも耳の中、視界の隅に入ってくるノイズ。
ああ、お前らに対する「無関心」を伝えたい。なんという矛盾。
汚い話だが、トイレ行ってウ○コして洗浄して紙で拭いた後にウ○コが残ってないか紙を見るという行為。
もちろんそれはウ○コがついて「ない」ことを確認する為だが、当然ながらウ○コ自体にはまったく興味がない。
「ない」事を確認するために敢えて意識せざるを得ないということ。それと同じ。
仮にウ○コ女から「自意識過剰」と言われてもなんとも思わない。それだけ
説明不足で馬鹿フェミに勘違いされそうだが、腹が減ったのでこれでいいや。
無関心だから
外に出ろ ニートのおっさん