2012-11-21

無気力人間によるネガティブな話

俺は長編ゲームアレルギーにかかっている。とあるつの長編ゲームをやった後にむなしさしか残らなかったということがあって以来、長編ゲームをやることが非常に億劫になってしまったのだ。

それ以来、時間がかかるゲームをやろうとするたびに精神的な準備時間がいるようになった。たくさんの時間をかけてむなしさしか残らないものをやってなんの意味があるのかと思うようになった。

ゲームだけじゃない。俺は時間のかかると感じるものは何もしたくない。人の話し相手もしたくない。この症状は俺が気持ちを変えない限りはどうにもならない。身勝手に誰かの責任にしたくなるのをぐっと押さえ、しかし俺の性格の悪さによるものだというのも認めたくないので、人生や思考の積み重ねの結果何もしたくない性格になっただけと思っている。

誰かに助けを呼ぶ手もあるが、助けを呼んだら俺も時間をかけて全うしなくてはならなくなる。時間拘束されるのはいやだ。俺の時間ほとんど俺の思いのままに使いたい。しかし俺にやりたいことは何もないらしい。結果として、何もしない時間がどんどん過ぎていく。

俺の経験から伝えられる教訓は、他人のために時間を空費するのが嫌だとか、失敗したら無駄時間になってしまうと考えて、何もしない人生を続けていると、俺のようなどうしようもない無気力人間になってしまうということだ。もっと希望のある教訓を書きたいのだが、失敗続きの俺が前向きな結論を書くと経験に基づかない不適切な嘘になってしまう。

■余談だけど気をつけるべきこと。

俺の推測では人生には、とりあえず試してみればいいことと、とりあえず試してみるのではまずい重大なことがある。人生ほとんどはとりあえず試してみればいいことばかりだが、ごく一部そうではないことがあるのではないか想像する。

多くの行動は問題ないが、少ないながらも一回やって失敗したら自分や周辺に取り返しのつかない被害をこうむるものがあるに違いない。その行動が取り返しのつかない事態を起こさないかには、注意すべきだと思う。

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