「比較する」という事が「比較できているかどうか」という視点に立ち帰って考えてみますと「比較」という言葉の用いられ方には自分と他者の視点間または自分の視点で自分と他者を見た時の比較結果の差異ばかりであると思うのですが、それだけでは必ずしも“比較できている”とは言えないように思います。比較する以上扱う二つ以上の対象を公平に観測できる視点が必要です。無論公平である事が必ずしも良いとか悪いとかという事とは無関係にです。自分という視点から自分と他者を比較した時というのは相手は有していて自分は有していない部分しか浮き彫りになりませんし逆も然り相手の視点のみでも相手は有していなく自分が有している部分しか浮き彫りになりません、なぜなら個々の視点だけではその視点のみの認識しか同時に上げられないからだと思います。しかしより広い意味での「比較」ができている状態というのは第三の視点での比較ができた時だと思います。その時に始めて両者の共通部分と差異部分がハッキリと浮き彫りになり見えてくるのだと思います。主観的な視点だけではその視点を他者に移してみた所で主観の主が相手に移っただけでそれが主観であるという事には変わりありません。そしてまたその自分自身の認識の在り方の移り変わりというものにも気が付きにくいものですが第三の視点からの比較によって得られた差異というのはよりあらゆる視点からも共通の認識としてその差異を理解できると思うし差異が解る事でまた共通部分の認識も深まるというものです。そしてその理解の共有がどんな対象に対してであってもより良い関係性の為の軸になると思います。なので“差別”とは比較によって生じたただただただの結果でしかなく好むとか好まないとか良いとか悪いもの、としてはいけないものだと思います。ただそこに在る、存在しているというだけの事です。まあでも敬尊している言語学者の金田一秀穂氏の言葉を借りると言葉の意味や使用方法は時代によって変化するものと言われており、自分もそれには共感しているのですが、意味や用途の都合によっては、意味の変化や用途の変化の前後で矛盾が生じてしまう事もあるのだと思います。だから結局そういった認識や共通理解がより多く確認できる相手とはより関係性を深めようと思ってしまうし、それが少なかったりまたそれが逆の相手との関係性において生じうる結果は、それはただ結果としての事なのかもしれませんが避けたり遠のけたりとした時と同じ結果が生じてしまうでしょう。その時その場合に意図せず生じてしまった結果に対してもまで非を求めるという風潮がその「比較」という行為を避けさせようとしているのではないでしょうか?「比較」それそのものがどうというのではなく結果をどう受け止めどう用いるかだと思います。ただ「比較」をすべきではないという意見が多数であればそれはその比較の結果を良い様に受け止め用いる事ができていない結果であるのではないのかなあと思います。より多くの誰にとってもこの「比較」によって生じる結果をより良く受けとめたりより良く用いる事ができる「考え方」が多くの人に広まって取り入れてもらえれば、また「比較」という言葉に対する多数派の見解も変化していくでしょうね!ワクワク^^
読みにくい。書き直し。