萌えが愛ではないもう一つの証拠というかヒントみたいなものがここにある。
すなわち、死が絡むと恐ろしく甘美になるということ。
ある種の愛、生き延びる愛はベクトルにすると生と同じ方向を指しているので、全く逆ベクトルな「死」は天敵となる。
打ち消し合ってゼロに還る。これは生き延びる愛からしてみれば全否定であり敗北に他ならない。
上手く言えないんだが萌えは生き延びる愛ではないという確信めいた感覚がある。
これは「生き延びる糧としては萌えは機能しない」っていう話とは別問題で、「萌えを生きているとき自分を生きている感覚が無い」みたいなことが起こっているように思う。
でもそんなこと言いだすと「じゃあ自分を生きているってナニよ?」って事になるし、それは誰もわからない。ヤバイ。誰にも分からないなんて凄すぎる。
とかコピペに逃げたくなるが、ええと要するに萌えている自分って限りなくオナってる状態に近いというかね。「オナってる自分も自分の一部だ!受け入れろ!!」みたいな話じゃなくて、実際にオナってるときにオナってる自分も自分の一部でそう考えている自分も自分の一部でみたいな無限後退に陥ったりとかしないでしょ。すると醒めるでしょ。
生き延びる愛は無限後退しない。無限後退を誘うような忘我に陥らない。
つーか生き延びるためには忘我状態みたいなクソ無防備なザマ晒すのはいただけない。
でも萌えは忘我させる。
で、死って究極の忘我じゃん。
だから相性がゲロ良すぎていっそ甘美なんじゃないかしらんとか思う。
萌えにかかると死が甘美なのも俺は気に入らない。
死を美しく飾るという性質が気に入らないというより、俺の感性が書き換えられて死を極上の蜜菓子みたいに錯覚するのが気に入らない。
死ぬことで何かすごく崇高なものが確実に完成するみたいな心地になるのが気に入らない。
俺は萌えの対象の死を想像する。その甘くとろける死を味わう。そいつが必死になったり絶望したりしてぐずぐずに忘我すると最高に興奮する。
生きて「また会おうね!」~fin~ とかなるよりは死で完成していつまでも手元に残ってほしいと思ってしまう。
これが愛であるはずがない。これが愛であっていいはずがない。
百害あって辛うじて一利だ。もういい加減これを捨てたい。
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