2012-06-09

精神は肉体の奴隷なのかもしんない

私という精神ないし人格は、宿っているのであろう肉体の支配下にあるような気がする。

空腹に苦痛を覚えるのも、息を止め続けていることができないのも、全ては私という人格みたいなものが肉体に支配されているからなんだと思う。

ひとつひとつの小さな細胞が寄り集まってる肉体は、己が存在をより安全により効率的に存続させるために、私を生み出し意思を与えたんじゃないのかしらん。

言うなれば遺伝子という自立プログラムを用いた壮大な実験場が地球という惑星なのではないのかしらん。

いまいちよくわからないんだよね。

私という存在は、自身が生きるために肉体を行使しているのか、肉体が生きるために行使されているのか。

実感がなければ理解できないなんて愚鈍まりないのだけれど、それでもやっぱり気になってしまう。

社会動物としての私じゃなくて、この肉体に宿ってしまった私の存在理由について。その本質、実在について、あれこれと言葉を並べてしまいたくなる。

本当に私はここに存在しているのかしらん。ここなる場所は、脳髄かもしれないし、イデア界かもしれないけれどもさ、そこんところちゃんとしたいって思っちゃう。

あるいは、生物とは何なのか。なぜ生きていて存在しているのか。同一個体のみで生体機能を維持している存在は、果たして生きていると見做すことが可能なのか等々。

夜に浮かべて、まぶたを閉じるわけなのです。

  • むしろ精神が肉体の奴隷でないという証拠がない。 例えば「ものすごい尿意を覚えてるけどトイレまで我慢する」というケースが、肉体の欲求に対し精神がコントロール利かせてるみた...

  • いろいろと得るものがあると思う。「実感」面で。 もう本当に、マジで「あー家電が稼働してる最中に突然スイッチ切られるとこんな感じなんだろうなー」って思う。 自分というものの...

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