つ学歴難民
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E6%AD%B4%E9%9B%A3%E6%B0%91
学歴難民(がくれきなんみん)とは、一流大学や大学院に進んだにも拘らず、
民間企業が求める人材(ニーズ)とは直接の連続性がないと見なされることがある。
また大学卒業生や大学院修了者のうちコミュニケーション能力や
ある個人氏の終焉、と言う文章を先日読んだ。男女が出会い、子供を妊娠した、と言う話だ。
私は十代のころに子宮筋腫が出来、そして手術を受けた。不妊の傾向はあるだろう、と言う診断もその時受け、定期的に通院している。
私は子どもの頃から、よく人のことを聞く人間だった。勉強はするもので、ご飯は食べるもので、部屋は綺麗にするもので、結果は収めるものである、と。自分の生の意味を考え始めたのは思春期の頃だ。大概、親のために、社会のために。上手に生きるため、に収束した。私は常に落胆した。酷く憂鬱に毎日を暮らした。したいことは何も無かった。酒を飲み、寝て、本を読んだ。しかし私は何者にもなれなかったし、ならなかった。なる事を選ぶことすらしなかった、出来なかった。
学生のころに恋人と暮らすようになった。恋人といると安心はした。しかし、恋人は私の生に意味を与えてはくれない。私はその、その人が体験する、一部の風景でしかない。せいぜい、美しく、楽しく、心和ます、そして少し何かを感じたり勉強になる風景でしかない。過ぎていく風景。恋愛、と言うのは突き詰めればそれだけでしかない。恋人は幾人か移り変わっていた。
そのうちに社会人になった。ある日に妊娠した。腹部の腫れを感じ病院に行ったら妊娠を告げられた。恋人が「結婚しよう」と言った。私はその笑顔で小さな不安をかき消し「ありがとう」と返事をした。私が、子宮が鉛のような私が。妊娠するとは。
感動はした。したのだ。しかし、その感動は、自分の生に意味が初めて与えられたように思ったからだ。しかしそれは同時に危険な考えだ、と私は思った。生に意味なんか、元々無いのだ。無い。意味を欲しがりすぎて、自分の憂鬱を晴らしたくて、胎児に、子供にそれを負わせるのか筋違いだ…ただ私はセックスをしただけなのだ。もちろん、相手を愛してはいたが。一月、二月と月日が過ぎた。体調の変化が訪れた。私は食事が出来なくなり痩せた。手に骨が浮き、顔が白く、醜い妊婦になった。毎日変わる体調。子宮のせいか、早産の疑いがあると言うことで仕事は休職した。
私は家で、一人、自分と世界を初めて繋ぐように思える胎児を体内で育て続けた。
七、八ヶ月に胎児が動きはじめた。腹部を、足で内側から蹴られた。どし、どし。出せ、出せ。彼か、彼女か。私の中の胎児が生きているのを感じた。私に対する周囲の人の反応も、おなかが目立つにつれ変わっていた。母親、と言う肩書きが社会から与えられた。私は、何者かになった。しかし私の頭の中では、私自身ではいまだ私は、私でしかなく何者ですらなかった。私は焦った。母親になることを。
十ヶ月、子供を出産した。酷い難産の末に子供が生まれた。子供が私の体内から出たときしばらく泣かなかった。気道がつまっていた。私は思わず喚いていた。助けて、赤ちゃんを!お願いだから!私は自分のために叫んだのだろうか。
出産した日の夜、母親が私のそばで付き添って寝ていた。私は体中の激痛と疼痛、全てにうめいていた。そして自分が、子供を、まるで自分の心の拠り所にしてしまいやしないだろうか、という不安に押しつぶされていた。母親に私は話しかけた。「お母さん」母は答えなかった。寝息が聞こえた。安心したような安らかな寝息。私は一人で声を押し殺して泣いた。
私が何者かであれば、子供をそんな風に思わずにすんだのかもしれないのに。私なんかの元に、子どもが生まれて幸せになれるんだろうか。母親が突然言った。「かわいかったねえ」私はどうしたらいいんだろう。私はもっと早くに、何もせずに、死ぬべきだったんじゃないんだろうか。でも今はもうそれも、許されない。
悩む暇もなく子育てが始まった。乳をやり、オムツを替える。お風呂に入れる。子供の体はグニャグニャしていて、そして良く動く。三時間ごとに乳をやる。休む時間も寝る時間も無い。疲労が蓄積した。子供は実際さほどかわいくは無かった。変な赤いグニャグニャだった。しかし、熱かった。命がつまっているかのように熱く赤く、やたらに泣いた。そして何者で無い私を、私だけに縋り付いた。私の乳にむしゃぶりついていた。
私が動物だからか、人間だからか、子供に対して初めて、激しい、愛着ともいえない、胸を締め付けるような何かが、沸き起こった。
数日後に退院して家に帰った。帰った私と子供に、夫はとても正直に言った「なんか変なのが来た」私もそう思った。そうなのだ、変な何かなのだ。よく解らない何かなのだ。現時点では。
周囲の大人たちは、口々にかわいいといい、子供を褒めた。そして子供が生まれたことはよいことだ、良かった、嬉しい、と言った。私はそうですね、と返事した。そして笑った。夫が居てよかった。私は何かを生んだだけなのだ、と言うことを忘れたくなかった。そしてそれは私が私と夫だけが、息子の誕生を喜びたかったのだ。何者かになりたくない。
数ヶ月たって、夫が急に言った「あ、こいつ、息子は、俺の、子供なんだな」この人は今、初めて父親であると言うことに気付いたんだろう。夫は仕事を転職した。私は賛成した。夫と喧嘩する事が急激に減った。
息子は今、七歳になった。私は今も、相変わらず何者でもない、と思っている。息子に持たれかからないように、いつも思っている。息子は私の何かではない。私の人生は、私の個人史は、息子が生まれたことで確かに意味を持った、と思う。そしてそう思われる。しかし、息子は私のものでは絶対にない。息子は成長するにつれ自我を持ち自分の意志を表すようになった。息子は自分の人生を生きていく。私は自分の人生を生きていく。個人史は終わらない。
私は風景ではない。夫と息子と長く暮らすうちにそう思うようになった。かつての恋人たちに対して、私は風景であり、一種の彩のようにしか思っていなかった。しかし、そうではない。人生は、時間は一人一人の、それでしかないものだ。それは時折交差する。通り過ぎるだけの風景ではなく、ぶつかって、形を、向きを、何かをお互いに変えたのだ。
私は、自分が生きる意味を理解した。それは私が生きる事自体にあるのだ、と。意味を与えるのではない。ここにただいることだけで、意味があるのだ、少なくとも私にとっては。そしてそれで十分である。
ひがみ乙wwwwwwwwwwww
http://anond.hatelabo.jp/20071118052612
この記事あまり注目されてないみたいだけど、正直かなりやばいと思う。
こういう脅しを一回許してしまったらこれからもやり続ける可能性が高い。
日本はこの発言に対してしっかり批判するべき。
>・しかし、出てきたのは冷たい水だったので安心した。
というのは、初めて聞いた。そんな証言あるのか。知らなかった。
一方、実際にガス室で殺されているところというか、殺された人を処理した人の話があったのではないかと思った。
(ただし正確な記憶ではない。あったら、見つけたら、またいつかここに書くかも)。
全体として、了解。
たしかに疑うことそのもの自体が難しいことって、ある。
時代を経ると、もっと客観的に見られるのかもしれない。
あの手の音って、いったん気になりだすと、イライラの蓄積はとまらないよね。。
一度、直接苦情を言ってみたらどうだろう?
音量を下げてくれるかもしれない。時間帯をずらしたり、ルートを変えてくれるかもしれない。
行政を通じて苦情を言うのもありだろうが、こっちはあまり期待できない気がする(根拠なし)
戦後の「ホロコーストの生き残り」とされる人たちの証言は、こういうパターンが多いと思う。
・収容所のシャワー室は、実際には「ガス室」で、入ると毒ガスで殺される、という噂が、収容所に入る前の人々の間で流れていた。
・そして自分も収容所に着くと、服を脱いでシャワー室に入るように命令された。
・先の噂を聞いていたので、自分もいよいよ殺されるのかと思ってビックリ。
・しかし、出てきたのは冷たい水だったので安心した。
(あの……これだけで「ガス室があった」証拠になるなんて、ひょっとしてギャグですか?)
ガス室に関する証言については、「ガス室の噂が流れていた」事や「みんなそれを事実だと信じていた」事を証言している人はいっぱいいるけど、実際にガス室で殺されている所を目撃したという証言は、それに比べるとほとんどといって良いほど聞かないように思う(もちろん、全くないわけではない)。
前者は単なる噂なので、その噂が真実であるという裏付けがない限りは、ガス室の存在を裏付ける資料としては、あくまでも参考程度の価値しかない。実際には、前者ばかり注目するのではなくて、数少ないだろう後者の証言を調べなくてはいけない。
私はホロコーストが「無かった」とまでは言わない。
ただ、あまりにも疑惑が多いので、疑いを差し挟むことは必要だと考えている。
誠実に調査した結果として、やはりホロコーストが起こった可能性が高いのなら、それはそういう結論でいいと思ってる。
死体がガス室の死体なのかチフスで病死した死体なのかについては、いずれが正しいにしろ、あるいは別の説があるにしろ、今となっては確実な証拠は残ってないと思う。
「普段はすぐに死体を焼却していたが、あれはちょうど、焼却炉の処理能力をオーバーしていたので、ガス室からベルトコンベアー式に直接焼却炉で運ばず、外に出しておいただけだ」なんて言われるかもしれないし。
ただ、ガス室が「あった派」「なかった派」いずれにしても、まずい論理はどこかでボロが出る。たとえばさっきの例なら、本当にそういう事例があったのか、そういう運用は実現可能だったのかなど、いろいろ検討してみなくてはいけない。もしガス室でのホロコーストが本当にあったとしても、「ただの盲信で、政治的圧力がかかっているから何となく信じている」のと「確かに起こった可能性が高いことが、誠実な調査によって明らかになった」のとでは、全く意味が違うと思うし、説得力も違う。信じるならちゃんと信じたい。
この質問した元増田ではないのだけれど。
>・矛盾のない信頼できる証言
これについて、てっきり戦後のユダヤ人とドイツ人の生き証人の証言で、ある程度確認された話と思い込んでいたのだけれど。
では、相当数の証言の資料に目を通した上で、「ホロコーストはなかった」と結論付けているの?
みなで口をそろえて「ガス室があった」と、嘘の証言をしていたと?