2016-11-30

共感性羞恥

共感性羞恥と聞いてひとつ思い出したことがある。

大学時代、ある講義最中に一人の学生が挙手し、少し興奮気味に自らの見解を述べ始めた。講義の内容に感銘を受けたのだろう、その感想というか印象の表出はしばらく続いたが、それを聞いた教授がどうしたかというと、怒った。それはもうめちゃめちゃに怒った。

個人的質問とも言えない感想の表明で他の生徒の貴重な学習機会を奪うことについて、またあらかじめ計算された講義の進行を妨げることの愚について、何度も言葉を変えつつ叱り飛ばした。それは学生意見を述べた時間よりも長かった(ように感じられた)。

いや、教授が正しいことを言っているのはわかる。彼女は少し空気が読めなかったなとも感じる。それでも、100人を超える人数が集まった大講義室で、着席を許されず立ったまま叱られる背中を思い出すたびに、今でも胃の下の方が重くなる。もちろん、彼女がその講義に顔を出すことは二度となかった。

ここから先は自分の話になるが、自分それからしばらくして講義登録を取り消した。教授の顔を見るたびに、あのとき感じた猛烈な恥ずかしさ、消えてしまいたさを思い出すせいだ。その講義が必修でなかったこともあるが、貴重な単位取得の機会をこんなことで放り出すなんて自分の心の弱さが心底嫌になる。それでも、あのときと同じ状況に立ったなら自分はまた講義登録を取り消してしまうだろう。これが共感性羞恥というものだろうか?

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