LGBTの結婚を認める認めないとか憲法改正すべきかについてとかいった問題に対してどう思うか・賛成か反対かを問われたときに、心の何処かでどっちが正義なんだろうかということを考えてしまう自分がいる。
例えばLGBTの結婚について、不道徳だし子供も産めなくなるわけだから認めんなというA案、人が人を愛するのにをOKとNG決めるとか頭おかしいんじゃねえかというB案があったとする。自分は考えた末にA案(またはB案)の立場だなと思っても、本当に自分はそう思っているのか?と自分で自分を疑う気持ちがある。A案が妥当だと思いながらも、でもB案が言うことも一理あると思うような、AとBのどちらがより現実的で妥当なのかを逡巡している感じではない。
A案のほうが理屈っぽい感じがするし、理屈っぽいほうが頭良さそうでかっこいいし、とかそんな感じでA案を支持しているだけじゃないのか?
実のところLGBTがどうあって欲しいというビジョンなんて全く無くて、ただ自分はカッコよく見られたいまたはカッコいいと思いたいという欲望が根底にあって、だからその欲望を満たすためだけに、特にそんなこと思ってもいないのにA案を支持しているだけなんじゃないのか?
その問題自体に大した興味はなく、それに対しての立場表明なんて自分をカッコよく見せて自分がカッコいいと思うための道具として使っているだけに使っているだけじゃないのかと、そんな事を思ってしまう。
そして、そんな疑心暗鬼を隠すために、A案こそが正義だ!なんて思っているんじゃないか。正義という言葉を使ってみたり、自分こそが正義なんですみたいな態度をとることでええかっこしい本性を隠そうとしているんじゃないのか、知らず知らずのうちに自分で自分を誤魔化そうとしてるんじゃないのか。これまで自分のことは何となく正義だと思っていたけど、そんなことは全くなくって、今までの判断は無意識の内に行ってきた醜い自己防衛本能なんじゃないのか。そんなことを思ってしまう。
実際、日本がどうあってほしい、これからどうなってほしいという事は全く考えていない。ゴールの方向性すら決まっていないのだから、諸々の問題に対する立場はその場その場で変わり、そしてそれらの立場の方向性は矛盾しまくっている。勧善懲悪的な映画を見てそれを額面通りに真に受けて育ってきたのだ。正義の熱血ヒーローやダーティーハリーのようなダークヒーローっぽく見えるか、または死んで当然のクズ野郎に見えるか。どちらかしか判断できない短絡的な価値基準を根底に、そしてそれを自覚せずに日々を生きているんじゃないのか。そんな気がしてしまう。
そうやって「俺は実は自分が悪かもしれないと考えているんだ、俺は悩みながらも正義が何かを模索してるんだ…」みたいな態度をこれ見よがしに披露してダークヒーローぶってるやつ...
なんかミスチルの桜井みたい
結局のところ、できるだけフェアでありたいと思ってしまう。なぜなら最初から負けてるから。自分のなかに大切にするべき美点なんか見つけられないし、人様に向かって積極的にアピ...