2013-08-20

生きることは流れていくようだ

生きることは流れていくようだとおもう。流されていくようだとおもう。ずっとそのかんじが嫌いだった。流されてはいけないっておもっていた、なにかしなくてはいけない、怠惰に過してはいけないってずっとおもっていた。まあ、いいんじゃないかなあと最近はおもう。

けれどもやはり、生きることは流されることだとおもう。ああ、なんというか、べつにいいんだ、有意義であったり、向上心があったり、学習したりとか、そんなことはどうでもよくって、そんなことなくて、ただ生きているだけでいいんだとおもう。しかし生きていると様々な苦しみがあって、そう、苦しみがある。人の自慢話がきもちわるいとか、太っているのが嫌だとか、オンナにモテないとか、この世界にはそもそも苦しみなんて存在しないのに、ぼくらの心は苦しみを感じとる、感じる、存在しないものを感じて勝手に苦しむ。だから何も感じなければそれは救いだとおもう。

ぼくはそういった様々な苦しみから目をそむけて生きている。なるべく感じすぎないように生きている。目をそむけて生きている。何も感じなければ幸せなのだ。だから死にたいっておもうことはとても自然だ。

一方で、死にたいと言うことはちょっとやばいかんじがする。生き物としてそれってどうなのっておもう。生存こそが本能なのに、なぜ死をのぞむのか、それはなにかが狂っている気がする。

苦しみを回避しようと、努めてなにも感じないようにすることはなんとも思わない、それはとても自然であたりまえなことだ、いつも寝惚けたように生きている、いつも少しだけ麻痺して生きている。そうしたほうが楽だからだ。

何も感じないように生きるのは結局、死のうとしているのと同じではないか

ぼくは生きることが好きなのだ、生きてるって感じが好きなのだ。生きてる感じにずっと包まれていたい。それは静寂と孤独だ。あと挑戦。心を開いて、肩の力をぬいて、勇気をもって飛びこむ。そんな日常散歩の途中でみつけた怪しい店にふらりと入れるとか、そんな程度でいい、挑戦することがあたりまえの生活孤独と静寂の時間をいつでも呼び出せること。倦怠と覚醒の間をいったりきたりできる。身軽さ。精神も肉体も身軽でしなやかで開かれていること。何ものにも囚われることなく、好きなものに集中できるということ。全てが無価値であることを知りながら、心の叫びをちゃんと聞きとれる。そしてその叫びに従える。そういう幸せが欲しい。

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