2011-06-23

安全か安全でないかの議論より、居住者の生活を奪ったことの方が問題

原発肯定論者がよく言う言説に、

原子力発電に伴う死者の数は、石炭を始め他のどの発電方法に比べても少ない」

「その証拠に今回の福島事故による直接の死者は出ていない」

原発が危ないから止めろというのなら、自動車も危ないから使用は控えるべきだ」

などがある。

しかし、現在福島第一原発引き起こしている事象は、そういうことではないのだ。

原発から30キロ圏内、および30キロ圏外でも放射線の強い地域の住民は、

自らの財産である居住地の退去を余儀なくされ、いつ元の生活に戻れるかの目処も立たない、ということだ。

また、その地域仕事場がある住民、特に原発とは関連のない産業の住民は、

自らの責任のないところで、否応なしに失業に追い込まれるということだ。

他の発電方法や、自動車などの文明の利器の使用において、不幸にして死者の出る事故が起こることはあるものの、

犠牲者や遺族に対して速やかに保証するシステムはそれなりに整えられている。

飛行機の墜落などによってたとえ住居や仕事場が破壊されたとしても、

健康文化的な」代わりの住居はすぐに用意されるだろうし、

仕事場のダメージについても速やかに保証され、

保証までの間も収入が途切れることがないよう最大限配慮される。

確かに、原子力発電による死者は少ないのかも知れない。

資源節約二酸化炭素排出量の少なさも評価すべきかも知れない。

しかし、いったん事故が起こると周辺数10キロに渡って住民が退去しなければいけないのであれば、

原発の立地として許されるのは、周辺数10キロに誰も住んでいないところだけだ。

そんな場所は、残念ながら日本の本土にはない。

こんなことは、最初から無理だったのだ。


放射線が危ない・危なくない」は議論の本質をついていないのだ。

事故が起これば、『放射線が危ないかも知れない』ので、

 放射線の数値が落ちるまでの間、

 原発周辺から退避しなければならない」という決まりがある上で、

原子力発電所運用すること自体、矛盾に満ちた行為だったということを、

推進派・肯定派・容認派は認めるべきなのだ。


これまで原子力発電に投資してきた資金はあまりにも惜しい上、

原子力発電があることを前提に作ってきた社会システムを維持できないのは痛感の極みであるが、

人道的見地に立つと、これ以上の原発運用を認めるわけにはいかなくなってしまうのが残念だ。

  • 海岸沿いに住むことも認めるわけにはいかなくなってしまったよね 東海東南海南海で津波がきそうなところに住んでる人も家とかあってもったいないとか思ってるだろうけど、早く放棄...

  • 言いたいことは分かるが、反例を挙げるとすれば、 それならなぜ、水力発電・水利開発のためのダム開発で、集落移転・換地問題がすんなりと終わらないのだろうか?

記事への反応(ブックマークコメント)

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