2008-12-08

http://anond.hatelabo.jp/20081206220423

当然「日本SUGEE!」は自分に重ねてするものだと思う。

その上で、別に「日本SUGEE!」って思ってもいいと思う。

更に言うと、この話に関しては、客観的に正しい情報とか、どうでもいいと思う。

この際、本当に「自分SUGEE!」に置き換えてしまえばいい。

自分SUGEE!」と思う奴は、単なる馬鹿だろうか。

そういう無根拠な自信を持つ奴は、阿呆なのか。

無根拠な自信を不確かなエピソード記憶から得るのは、愚かしいことか。

異性に告白するとき、入試面接を受けるとき、

むしろこの無根拠な自信こそを、常に私は糧とするのではないか。

確かに「日本SUGEE!」を見るとき、そこには何らかの疑問を感じる。

それは単に、「日本SUGEE!」はコピペ見て思うことじゃないからだ。

自分の必要に応じて事実恣意的に拾い上げたところで、日本は決して凄くならないし、自分も凄くならない。

だが事実は決して客観的事実だけではない、ここで意味を持つのは主観事実

日本SUGEE!」と言えるのは、主観的な事実から出発したときだけで、それは「自分SUGEE!」の場合と同じ。

そういう主観的な事実は、当然ネットの上に転がってはいない。恣意的に情報を編纂しても手に入らない。

むしろ自分が転がって見つける類の『記憶』だと思う。

だから「日本SUGEE!」を言うために客観的事実をくださいというのは、やっぱり愚かだ。

でも「日本SUGEE!」は、殺すべきでもなくて、自信を与える「日本」はあっていい。

問題は、自信の調達に客観的事実を必要とする自己矛盾の方にあると思う。

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