はてなキーワード: 赤毛のアンとは
http://anond.hatelabo.jp/20090414021535 の増田です。
今日も母、なんか体調悪いみたいで殆ど家事をした形跡なく、寝てるんですよね。
気圧が低いとこんな感じなので大丈夫なのかなあ。
と、思ってたら父帰宅で即座に起き上がりお茶を淹れ始めました。
配偶者を大事にしている所は本当見習おうと思います。
なるほど。韓流と漫画をくっつける!という観点はありませんでした。
しかも景福宮は前に旅行で連れて行ったから喜ぶかも。
ありがとうございます。
あー本当、なんか昔のドラマみたいでわかりやすくてよい!
とはよく言ってます。彼女の友人達も口を揃えて言っております。
でも最近なんか飽きてきたみたい。友人同士の付き合いのために見ているんじゃないの?
という発言が増えてきました。
わー!なんかこの漫画は自分も読んでみたいです(アマゾンレビューを読んで。)
未だに子育てしたい人なんで(未だ孫がいないんです。私の兄弟にも子供がいないので)喜ぶかも。
最近は桜が綺麗だったので何日かに分けて5カ所位色々歩いてきました。
万歩計が一緒になってるDSのソフトもプレゼントしたので、一万歩越えた!と喜んでましたよ。
一回入院した時はもう元気に歩き廻ったりできないんじゃないかな、
と思ってたんですが、今は大分元気です。
来週あたりこっちは八重桜が咲くので午前中は一緒に歩こうかと思ってます。
手塚漫画というのを読んだ事あるかと母に聞いた所、あれはもう少し若い子が読む物じゃないんでしょうか?
というやりとりをした事があります。
サザエさんは田舎の家にあったので大分読んでたはずです!四コマ漫画からいけるかなー。
母の実家には子供の頃近所のお坊さん(祖父と懇意)から貰ったという仏教漫画がありました。
絵柄は聖☆お兄さんにほんのり似て…無いな。戦後直ぐの発行でした。
なので複数コマの漫画も読めなくはないかなあと思ってます。
もちろんコマほぼ長方形ばっかりという美しさなんですがね。
やっぱり共感もてないものですかね。
例えば「不思議な少年」とか「車輪の下」とか「赤毛のアン」とかは
文化圏も時代背景も違えど、今でも読まれてます。
異星人ではないので何かしら心に響いてくれる物があるとは思いたいのですが。
DVDを借りてきて座って見て貰うのは安直過ぎて、老化が進んでしまわないか心配。
しかし、テレビでも若い人向けの内容だと音声はいいのだけど
映像は目まぐるしいとはよく申しております。
ビデオゲームを興じる80代のおばあちゃんの2chまとめスレッドを読んだ事あるのですが
うちの母には無理ですね。。スーパーマリオは目が疲れると20年前でも言ってました。
という訳で、漫画はやっぱり考え直した方がいいのでしょうか。
どうでもいいんですが母が「お一人様の老後」という本を買ってました。
母よ何がしたいんですか。夫婦仲は良さそうなんですが。
別れ話がこじれた結果、「別に付き合う相手なんて誰でもいいんだからわざわざ君のような面倒な相手とつきあう必要はない」という趣旨の捨て台詞を吐かれてふられたことがある。結婚の話も出た相手だった。その言葉に私は自分でもびっくりするくらい深く傷つき、立ち直るまでには1年半時間がかかった。一時は誰とでも寝るということをやってみようかと思ったくらいだった。どうしてそう思ったのかはよくわからないけど、そのときはそうすると納得できるんじゃないかと思えたのだ。余計な話になるが、私の両親はとんでもなく保守的な考え方をする人達で、私は「結婚するまで処女でいるように」と躾けられて育った。つまらない冗談のようだが本当のことだ。さすがに20歳を過ぎてそれを額面通り受け取ることはできなかったが、それでも全く無視はできないという程度の束縛感はあった。だから自分がそう考えたこと自体が結構な驚きだった。
面倒な相手という点については、まあそう言いたくなる気持ちもわからなくはなかった。取り立てて異論はない。「面倒だから別れたい」と言ってもらえれば私もすんなり納得していたと思う。問題は「誰でもいい」の一言だった。我ながらいくら何でもそこまでショックを受ける必要はないだろうと思ったが、駄目なものは何をどう頑張っても駄目だった。悲しくてまともにものを考えられなかった。
時間が経って落ち着いてから、私は相手に何を求めていたのだろうとよく考えた。そして相手は私に何を求めていたのだろうと。
小学生の頃よく読んだ「赤毛のアン」シリーズに、何巻目だったかは忘れてしまったが、「人間は20歳くらいでその輪郭が決まってしまう」というような一文が出てくる。私はそれを真に受けて10代の数年間を過ごしたので、20歳くらいまでに何とか自分の方向性を確立しなければならないという強迫観念があった。そして20歳になる頃には本を読んでばかりいる生意気な理屈好きの小娘になった。ある時期からは手に取った本に書いてある映画を見て音楽を聴くようにもなった。村上春樹を読んでビーチ・ボーイズを聞きイオセリアーニやアルトマンを見るようになった。アーヴィングからヴォネガットに手を出し古典を読むようになった。そのうちペーパーバックも読むようになった。新しいものを知るたび少しずつ世界が広がっていくように感じられ、すごく楽しかった。でもそういう楽しみを誰かと分かち合うことはなかった。私の属しているところではそういうのは何と言うか、知的な気取りの一種のように見なされていたからだ。私は1人で図書館にこもり1人でタワレコに通い1人で映画館に出かけた。両親は極端に人付き合いが悪い娘にひとしきり説教を垂れたが、私としてはそれに特段不自由を感じなかった。友達がいて知り合いがいて1人の時間がある、それのどこが問題なのかと思っていた。確かにそういうのは客観的に見てあまり魅力的な姿とは言いがたかっただろうが、私は毎日いろいろと必死で魅力などというものについてじっくりと思いを巡らす余裕はなかった。そんなことについて考える暇があるなら丸善まで出かけて本棚を物色する方が100倍楽しい。私は何かの答えをそれなりに必死になって探している最中で、魅力なんてものは後回しにしておけばいいと考えていた。
一方、というか当然というか、私は「若い女性」という自分の属性にどうしてもうまく馴染めなかった。若い女性であることをすごく窮屈に感じた。そしてその窮屈さをなかなか言葉に表すことができなかった。人並みにフェミニズム関連の本も読んだけど、それはどれも目の前のあまりにもベタな現実とはうまく切り結ばなかった。例えばがつがつと本を読む若い女性は私の周囲にはいなかった。有り金全部を使う勢いで映画を見る若い女性もいなかった。本当にものの見事に誰一人としていなかった(たぶん趣味に関して引きこもっていたせいだろう)。私の周囲では、一般的に若い女性はそういうことはあまり好まないものだという観念が割と根強くあった。そういうのは趣味として上品に嗜む程度に留めておくべきものであって、没頭するべきものではなかった。もちろん若い女性の精神分析の専門家だとか映画監督だとかいう人がいるのは知っている。統計の授業を担当なさった先生はUCLA帰りで、とんでもなく優秀な上におよそ文化と名の付くものなら何にでも博識な女性だった。でも彼女たちは言ってみれば「私の履歴書」みたいなものだった。自分に特段優れた才能が備わっているわけではないことにはとっくに気づいていたので、それらはただ単に雲の上の出来事でしかなかった。たぶんそういうのは選ばれた若い女性だけに許された特権なのだ。それに特権を維持するのは見るからに大変そうだ。そう思っていた。私は自分の置かれた状況にはそれなりに満足していた。家族は私に呆れながらも基本的には好き勝手にさせてくれていたし、友達も私がよくわからない何かにかまけているからといって意地悪をするようなこともなく優しく放っておいてくれる。環境にはずいぶん恵まれたと思っていた。もし私が男の子だったらもっと堂々とできたのかもしれないが、男の子は男の子でいろいろと大変そうだとも思った。ここから出て行きたいとは思わなかった。うまく言えないのだが、どこかにあるはずの理想の地を探すことではなく、今いる場で何とか居心地のいい状態を確保することの方が建設的な考えのように思えた。
そんな状態にもかかわらず、お付き合いする相手が現れることがあった。縁があったのは同級生や会社の先輩といった人達で、音楽や映画の話がきっかけになることが多かった。好みが似ている人とは話がしやすい。自分が基本的に聞き手に回ることしかできないとしても、親しみのある世界の話ができることはとても嬉しかった。社会人になってからはなおさらそう感じるようになった。女の子同士がお茶だけで何時間でも話しまくるように、好きなことの話だけで1日中笑ったり驚いたり考え込んだりできるのは本当に楽しかった。でもそれと同時に、1人で楽しむことを選んだ領域に人を介在させるのは少し怖いことだと感じた。そこでは1人で過ごすことを選んだはずだ。そのルールを変えたりしてひどい目にあったりしないだろうか。でもひどい目ってどういうことを言うのだろうか。よくわからなかった。でも、はっきりと意識に上らないくらいぼんやりとした一瞬の感覚だったにもかかわらず、その嫌な感じはなかなか消えなかった。
相手との距離が近づいてしばらくすると、私はびくびくするようになった。付き合い始めて1年も経つと、仲良くなるきっかけだったはずの私の趣味嗜好のようなものが、次第に相手を苛立たせるようになってきたのがはっきりと感じられた。私が何の気なしに漏らす一言に相手がすごい剣幕で「普通の女の子はそういうことは言わないものだ」と怒り始めることも珍しくなかった。その都度、私がどちらかというと普通じゃないことは私もあなたも承知しているはずだったと思いますが、あなたの言いたいことはたぶんそんなことじゃないんでしょうね、と思いながら黙って聞いた。自分でこんなことを言うのはばかみたいなのだが、私が縁あった男性は目立たないけれどしっかりしていて人の気持ちを察するのが上手な人達だった。どうしてそんなに人当たりがいいんだろうと思ってよく見てみると、誰と接するときでもフェアであることを優先させているのがわかった。女の人からの評判はよく(ただし決してモテるという訳ではない)、マッチョな男の人からは幾分軽んじられているふしがあった。そういう人をここまで怒らせるからにはたぶんこちらに非があるのだろう、と私は思った。だから相手を怒らせそうなことは片っ端から控えるようになった。でも、そうなるとそこにあるのはただの力関係だけだ。会話の内容が当たり障りのない世間話のようなものになり、映画館やレコードショップを避けて出かけるようになり、そうして程なくして別れることになるのだった。
相手の年齢や社会的な属性が違っても別れる理由は同じだった。ある時の別れ際に冒頭のことを言われた。私がショックだったのは、いつの間にか関係がすっかり塗り替わってしまっていたことだった。友達の延長みたいにして付き合い始めたつもりだったのに、それとはかけ離れた関係を作り上げていた。最終的に私は規格外の若い女性でしかなかった。更にショックだったのは、「誰でもいい」と言われて最大限に傷ついている自分だった。仲良しの友達に言われたとしても十分ショックなフレーズだとは思うが、私の受けたショックはそれだけでは説明がつかなかった。付き合っていた相手にだけはコンビニで飲み物を選ぶように私を選んだと言ってほしくはなかった。でもいつの間にかそうなっていた。相手が最終的に私に求めたのは女の子らしい女の子であることだった。それと呼応するようにいつからか私も、私が私であることの担保を相手に求めるようになっていた。いつの間にそれを求めるようになっていたのか、自分のことなのにまるで理解できなかった。付き合い始めた時の気持ちははっきりと思い出せるのに、その時は担保なんて関係なく楽しいことや嬉しいことはその意味を意識する必要もなくシンプルにそれだけだったはずなのに、見た映画に興奮して渋谷から千駄ヶ谷まで意味なく歩いてしまった私は相手に会うとうまく口がきけなくなっていた私とまるで矛盾なく同じ私だったはずなのに、それらがきれいさっぱり失われてしまっていることがうまく飲み込めなかった。でも、お互いに求めるものがそれだけになった時点でそこにはもう役割だけしか残っていない。確かにそうなってしまえばいくらでも代わりはいるのだ。お互い相手にその望むものを差し出す余地がないのは嫌になるくらいよくわかっていた。何だか騙されてたちの悪い契約を結んでしまったような気分だった。でもそれに荷担したのは他ならぬ自分だったのだ。
それは残念。
でも、『チップス先生』は、少なくとも人の名前を覚える必要が全然ない(主人公のあだ名「チップス」だけ知っていればいい)んです。
それに訳文も大変きれいで、読みやすい日本語だと思いますから、「まあまあ、食わず嫌いをしないで読んでみたら?」とお勧めいただければこれ幸い。
『赤毛のアン』で敢えて古い村岡訳を挙げたのも、読みやすい日本語だと思ったからです。
まあ、「アン」はカタカナ名前をいろいろ覚えないといけないので、慣れないとちょっと読みづらいかもしれませんけど、ロシア文学ほど酷くないんで、そのうち勧めてみてくださいな。
世の中にセックスより面白い物はたくさんある、なんて嘘は言わない。セックスはすばらしい。だけど、肉欲のセックスってのは割りと底が浅くて、とろとろに溶けるような恋愛の中のセックスはほんと麻薬。100人切りみたいな肉欲を継続できる人って尊敬するわ。
話がそれた、俺はセックスを推奨してるわけじゃない。肉欲セックス並みに面白い事なら世の中にたくさんある。そう言うわけで、人生楽しもうぜ。ちなみに中学生女子はお勧めしないが、中学生向けの推薦図書って結構面白かったりする。片っ端から読んで見ても違う世界が開けるかも。俺は中学生時代推薦図書って馬鹿にしていたが、暇つぶしに読んだ赤毛のアンがぶっ飛ぶほど面白くて、しばらく新潮文庫の世話になった。同じころPlayboyのお世話になって、今でもエロオヤジだ。