はてなキーワード: 代替医療とは
本書では、代替医療を否定するために、医学の父ヒポクラテスの言葉が度々出てきます。
「科学と意見という二つのものがある。前者は知識を生み、後者は無知を生む。」
しかし、ヒポクラテスは紀元前4世紀には 「同類をもって同類を治す。」
という類似の法則(ホメオパシー)をしっかり定義づけているのです。
ヒポクラテスは同種療法(ホメオパシー)とアロパシー(対処療法・現代医学)の2つの医学について述べ、
はじめに同種療法を行い、どうしてもダメならアロパシーを、と述べています。
ヒポクラテス「人体は疾病に対して自然に回帰するものであり、医師はその回復する自然の力を補佐するのが天命である。」
「医学の父」と言われるヒポクラテスは、日本では医師の倫理性と客観性を重んじる「ヒポクラテスの誓い」ばかりが有名ですが、
マイナスイオンとか、良い波動を出す事が健康に繋がるみたいな、一見科学を装ったメタ糞な主張をニセ科学とカテゴライズして批判している人たちが居る。
批判者の多くは、被害者が出なければ良いとか、科学的に正しいと主張していなければ問題ないと話すけど、それって甘くないかい?
そんな甘さがニセ科学増長の一因となっていると思う。
お守りなんて、科学的に効力が無いことは明白なんだから、あんなものに御利益があるとか言って販売するのは即刻禁止にしてほしい。
所謂代替医療なんて、日本では明らかに医療以前の民間療法まで十把ひとからげにして代替医療とか呼んでいるけど、そんな呼び名はさっさと改訂してほしい。
レイキなんてオカルトじゃん。そんなのまで代替医療に纏めるからつけあがるんだよ。
猫カワイイ。
また世話好きの知り合いの社長に心配され、とりあえずウチへ来いと誘われた。
とはいっても、働く気が無いわけではない。自分はとても仕事がしたい。
ブランクはあるし、年齢の割に洗練はしてないけど、ある問題さえなければ、出来ると思えることは山のように思いつく。
別に選り好みしているわけではない。できるんだったら、アルバイトだっていい。
なぜか年上に好かれるのと、学生時代に色んな仕事をしてたおかげで、人脈もあり、今回のように、ウチへ来ないか的なはなしがたまにある。
しかし、私は断る。
知り合いだからこそ、迷惑を掛けたくないからだ。
履歴書だけ見ると、上場企業を数回転職してきた、向上心あふれる人に見えなくもない。
それはある面で正しい。次こそは、あの悪夢が来なければ、と、思いながら、20代は転職をしていた。
仕事をやめる理由は毎回同じだった。
昼間から、突然ぶっ倒れるように寝てしまうためだ。
職場ならまだいい。会社のビルを前に、顔面蒼白で倒れることもあった。
最初は同情されるが、すぐに荷物になる。まあ当たり前だ。
原因は正直よく分からない。医者には大抵、自律神経失調症と言われるが、10年近く薬を飲んでも治らないので、2年くらい前にやめた。
慢性の鬱ではない。怠惰でもない。ただ、体が言うことをきかないもどかしさが、とても悔しい。
さらに5年前くらいから、みぞおちが刺すように痛み、毛穴という毛穴から脂汗やら老廃物やらがドクドクと流れ出るようになった。
これもまた医者で内視鏡やらなにやらで調べてもらったが、目立った異常が無く、結局また自律神経失調症だ。
こっちは初めての発作の時、本当にこのままだと死ぬと思い、救急車を呼んだりしてたレベルなのに、何もないんだそうだ。
そして運び込まれた病院で触診を受け、確かに胃が痙攣しているといわれ、首をかしげられる。
だから言ったでしょう。手を当てると、胃の中でカエルが暴れてる感じって、そう伝えたでしょう。
本当に、全く意味が分からない。
しかも最近、外に出るとまた失敗するんではないかという恐怖感から、ひきこもりがちになりつつある。
それでも私が努力しているのは、この体を何とかしなければ、もう生きるすべが無いと思うからだ。
今はほぼ、ドクターショッピングな日々を送っている。
それしか、自分が前に進む方法は無いからだ。
でもたまに、夜に苦しんだ分の脂汗を流すため、シャワー浴びながら朝から泣いてたりする。
どうしてこうなった、何をどう努力すればいいんだ、そういう感じで顔を歪めて。
医者通いも時々嫌になるし、全て放り出したくなることもある。
でもやらなきゃ始まらないとおもって、医学書や論文をあさり、目星をつけ、病院を回っている。
癌の人とかが代替医療を求めて転々とするのって、こういう気分なのかなー、とか思いつつ。
私にはやりたいことが山のようにある。
友達にわざわざ近所まで来てもらったりしたくない。
そんな願望を心に、私はもうすぐ35歳無職となる。
その「科学的」の扱いをめぐってゴタゴタしてるという話ではないのか…?
この二つの問題は、少なくとも科学の側からは明確に分けられるし、科学者は自覚して、そこを分けて振舞うべきなんだけどな。
こういう態度じゃもうダメだよね、科学者も社会的責任果たさなきゃっていうのが現代の科学技術社会論とかの主張で、それに対する支持はどちらかというと大きくなりつつある。もちろん事実として、見向きもしない科学者は多いけどね。
他の人も言ってるけど、菊池誠さん(阪大教授)とか、最近科学者もけっこう発言するようになってきている。日本物理学会でニセ科学問題にどう対処するかってセッションも開かれたぐらいだし。
多分以下のようないくつかの問題がからみあっているのでややこしくなっている。
まあ、それを解きほぐすのが倫理学の仕事だといえば、その通りなんだけどね。
元増田の言ってることは「戦線を限定すべき」という意味では大賛成なんだけど、「倫理」とか「知的誠実さ」とか言わない方がいい。話が拡散するので(実際スレッドを追うと拡散してる)。
単に「科学的手続きを踏まえていないものを科学と呼ぶな」って言えばいい。
「科学的手続きとは何か」というのはある程度わかりやすく説明できる。>その手の本はいろいろ出てるので興味のある方は読んでください
ややこしいのは、「科学的手続きを踏まえていないものを科学と呼ぶな」というパフォーマティブな言明は何を意味するのか、ということ(誰が言うべきか、そもそもなぜ言うべきなのか、言ったら効果があるのか)。
で、さらにややこしいのは「じゃあ科学とは呼ばないよ。科学的手続きを踏まえていないものを「世界の根本原理」と呼んで広めることにするよ」となったときにはもう、「科学的手続きを踏まえていないものを科学と呼ぶな」という言明は無効化されちゃう。そこでさらに深追いして「科学的手続きを踏まえていないものを口にするな」なんて言っちゃったら我々の日常的コミュニケーションのほとんど全てがひっかかっちゃうからね。
法律に触れるようなことはもちろん法律で裁けばいい。でも、そうでないもの、グレーゾーンなものは難しいよね。「ある人を救うためにナイフで刺すことがベストな方法」って思ってる人が本当に刺しちゃったら犯罪ってことで処理されるし、ある種の代替医療とかはそれに近いところまできちゃってるのかもしれないけど、水伝なんかはそうとは言えないからね。
確かにあれで授業を受けた子どもは、色々な意味で「機会損失」があるわけだけど、それは法には触れないし、「科学」というラベルを外せば先の批判は無効化されるから、あとは「議論」していくしかないんだよね。科学に対する価値観の違う者同士で。
ていうか漢方って、せいぜいが経験の蓄積に過ぎないんだよね。
「これを処方したらこの症状に効いた」それ以上のものではない。そもそも最初に処方してみた理由すら謎。
数千年の蓄積があるからこそ薬として機能しているけど、なにしろ機序を理解せずに処方するわけだから普通にやってたんじゃ新たな薬効の発見なんてのはほとんど不可能だ。多分*(結果として)人体実験による数多の犠牲の上に成り立っているに違いない。
念のために言っておくけど、西洋医学だって出発点は似たようなものだ。多分18世紀頃までは、医学ってちっとも理論的じゃない。悪い血を抜いて毒を出すとか。まるっきり今の「デトックス」とかいう妄言と同じレベルだ。
だけど西洋医学は、仕組みの理解を重んじた。「何を処方すれば効くのか」よりも「何が原因で病になったのか」。原因が判れば、それを排除する方法を考えることができる。
今の医学にはかなりの「知識の蓄積」がある。この成分は何故このような働きをするのか。この病原体はどのような仕組みで感染し、増殖しているのか。分子レベルでそれを突き止めているから、逆に分子レベルで欲しい効能をデザインしてみることができるまでになった((それが必ずしも期待した通りに働くとは限らないのが、現代医学の限界ではあるのだけれど))。