はてなキーワード: 意味不とは
今日逮捕されたid:realiste0について、はてな民なら知っているかなとも思ったのだけれども、いちおう書いておく。
http://web.archive.org/web/*/http://d.hatena.ne.jp/fer-mat/
2005年頃には、結構人気があったので、当時はてな民だった人は記憶の片隅にはあると思う。
2004年当時の記事を読んでもらえれば分かると思うけれど、東大生にありがちな、斜に構えた感じの、それでも普通の学生だった。
一周完了ヽ(´ー`)ノ
確か10月17日に憲法が一周完了したから、二ヶ月弱で民法一周。ほとんど電車内で解いて500問。ちりも積もれば何とやら。民法一周終えた感想。難しいのは行為能力(保佐人だの成年被後見人だの)、担保物権法(根抵当だのなんだの)、不法行為に関する議論(共同不法行為における求償関係など)、取引安全(善意、善意無過失、善意無重過失などの要件が煩雑)。債権総論は思ったより難しくない。商法の有価証券法に比べれば指名債権譲渡の議論なんて屁みたいなもの。契約各論も択一に限って言えばかなり簡単。
つうか商法マジ意味不。大体学生に為替手形だの白地手形だの株式だの言われてもピンと来ない。その上、引くべき条文が膨大で、しかも改正が多すぎるから六法がすぐ骨董品になる。商法だけ差し替えられるならまだしも、商法が変わるだけなのに六法ごと買い換えるのは不合理極まりない。またせっかく六法が手になじんで愛着が湧いてきたのに新しいのに買い換えろとは人情というものを分かっていない。
http://web.archive.org/web/20041216010957/http://d.hatena.ne.jp/fer-mat/より引用。
あまり彼を追っていたわけではないのだが、壊れ始めたのは卒業後?留年決定後?司法試験不合格後?
http://web.archive.org/web/*/http://d.hatena.ne.jp/leibniz0/
http://web.archive.org/web/*/http://d.hatena.ne.jp/revolu/
ネット上に彼の4年間の思考の軌跡が残っている。
人が壊れていく過程というのをここまではっきりと見ることができるものも、あまりないと思う。
http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10137812924.html
結局、論壇という狭い世界を漂っているなんとなくな言説の「空気」を「世界」だと思っているのよね。
それじゃ読者にはいつかバレるし、どんどんバレればいいと思う。
最近の彼の書くものを見ながらずっと思ってることなんだけど、東浩紀ほどネット上の言説にコミットして、その結果として悩んでいる人間はいないんじゃないかと思っている。
私が「ゲーム的リアリズムの誕生」を読んで一番印象に残ったのは、その注釈の多さだ。ページの半分が注釈で埋まっている箇所さえある。確かに、360度からツッコミが入る環境で言論を戦わせた経験のある人間が、それを踏まえてなお、己の主張を一冊の本に固着しようとしたら、あらかじめ360度の防衛線を張るより他ないだろう(まぁ、それでも矢はガンガン盾を突き抜けていくわけだが)。
少しでもネットで議論を交わした経験のある人間なら分かると思うが、公の場に自分の主張を出すということは、己がコミットするものが、「世界」から見ればワンオブゼムでしかないことを徹底的に再確認させられる作業だ。情報技術の発達は、あらゆる立場のあらゆる人間が己の主張の正当性を信じているということ、それを可視化することを可能にした。たとえ、その主張が本人の誤解や全くの思い込みに基づいていたとしても、だ。そして人には、それを真実であると信じ、仲間と共有し、異を唱える者を「反公共的人間」として糾弾する「自由」がある。
だから、彼が「南京」を例に出しているのを見たとき、そういう現状を極めて率直に語っているのだな、というのが私の感想だった。彼の言っていることは全く正しい。「世界」に対して真に誠実に向き合うなら、あらゆる主張が「ありうる」という事実を認めるほかない。
しかし我々は、徹底的に相対化されうる「世界」の中でなお、それぞれがそれぞれの理由で「偏り」を持った存在であり、それを解(ほど)くために何かにコミットすることを選ばねばならない。たとえ、そのことに絶対的な正当性がなくとも。そして同時に、己の立ち位置の「根拠」の無さを忘れることなく。
東氏も、最終的にはメタメタから降りて、何かに「あえて」コミットする道を選ぶことになるだろう。けれど、上の文を一読して、そんな彼を悪し様に批判してどうするんだろうな、ということを思った。もちろん、それを言ってる本人やその他の人々やそして私が、東氏の言うジレンマを踏まえた上でなお何かにコミットすべく踏み出していくのは勝手だし、いや、むしろとても価値あることだと思う。
しかし、「お前はなぜそれにコミットしないのだ。風見鶏を気取りやがって!」という批判は、直裁に言えばとても気持ち悪い。何かにコミットする、そしてそこに正義がある、というのは今や自明ではない。もちろん、自明でなくてもヤラねばならないことはある。それはそれで正しい。しかし、上記のような批判には、その二律背反に対する躊躇が全く感じられない。そういう躊躇の無さが、批判的な意味で「左翼的」と呼ばれているなら、その感覚には同意する。
「コミットすることの正義」は自明ではなく、しかし、自明でなくとも進まねばならない。この隘路を踏まえずに突き進んでも、全ての言説が相対化されタコツボ化するネット社会において、「利己的な正義」のワンオブゼムとして忘れ去られる以上の成果など残せないのではないか。
東氏が、いつ次のステージに踏み出す気なのかは知らない。我々は、彼の言説を踏まえつつも、それを尻目に黙々と自分の道を歩めばいい。それだけの話だろう。
(追記)
上のエントリが某所で言及されてたのを見て、反射的にコレを書いたんだけど、よく見ると9月の記事だとさっき気づいた。上で「360度」って書いたけど、これは若干語弊があるね。今まさに実証してしまったように、弾は四次元の方向からも飛んでくる。よく、こういう環境で「批評」を、しかもそれを「本」という固着された存在にしようなんて思うよなぁ。
(追記2)
http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20081203#p1
んー、そういう「誤った相対主義」の結果として東の発言を捉えるのはミスリードだと思うんだけどなぁ。そもそも例の発言は、デリダの言ったっていう「ユニバーサルな人間理解の可能性」というのは所詮不可能であるし、不可能であることを前提としない民主主義はある意味不健全である、という認識に基づいていて出てきた発言であるように思うので。その辺は、「東京から考える」や「思想地図」を読むと分かると思う。
森林を育てるために間伐は不可欠だが、間伐材の値段は安く、輸送費も出ないことから、必要な間伐ができていない森林は全国的に少なくない。同社は06年3月から栃木県那須塩原で森林保護に取り組んでいて、希望者を募ってはバスを仕立てて間伐作業に出かけていた。それもあって、間伐材が森の中で放ったらかしにされていることを知っていた。
林野庁によると、割り箸は年間約258億膳、一人あたり平均約200膳も使われている(04年)。96%が中国やインドネシアからの輸入品で、シラカバやスギ、ヒノキなどでできた日本製は「高級」すぎて競争力を失った。北海道などの一部では間伐材の割り箸をつくっているが、流通するほどではない。
自然を大切に、緑を増やそうってのはええのですが、植樹するだけで伐採もせんで、そのうえせっかく植えた木を手入れもせずほっといたらあかんのです
植物かて生き物やからそれなりに育ててあげなあかんのです
しかも、日本の山はスギを植林してきたせいで雑木林てのがなくなって、林業の後継者も減って荒れ放題の処が多いのだとか
そこで以前から提案してきてましたように(誰にやねんっ)、徴兵制の復活なのです
社会人となり就職する前、何年か徴兵し屯田兵とでもいいましょうか、地方の後継者不足で困っている農業、漁業、林業・・・そいった一次産業へですね若者を駆り出すわけですねん
食料自給率が年々減少している昨今、このままでいったら日本は田んぼや山、海にかぎらず儲けがない、後継者が育たない、過疎化が進むで一次産業は一体どうなるのでしょうか
《私の中学では同和教育をしている。前の学校では、ひとかけらもこんな教育を受けたことがなかった》
東京から大阪に移り、2度目の引っ越し先となった大阪市東淀川区での生活は、橋下自身が「僕の人格を作ってくれたところ」と振り返っているように、濃密な時間だった。中でも中学校で学んだ人権教育は、思春期の橋下にとって「カルチャーショック」とも言える出来事だったようだ。
かねてより疑問に思ってたんやが、同和問題に関して西と東とではだいぶ温度差があるんでないかと。。
関東以北、とりわけ東北地方においては同和問題は存在しない・・・たぶん
自分が不勉強なだけかもしれへんけど、学校の授業でも習った記憶がない
はじめてこの言葉を耳にしたとき、綜合警備かなんかと思ったくらいやもん(汗)
あまりにも貧しすぎて東北全体がそもそも同和地区みたいなもんやったからやろか
それとも、やはり同じ日本とはいえ蝦夷と倭との違いみたいなもんがあるとか
ほんまのとこはどないなんすかねえ・・・
ただ、こういった生存に必要な経済は、今の日本の経済のごく一部になっていると思います。
今の日本の経済の大部分は娯楽などだと思います。ある意味不必要な経済と言ってもいいのかもしれません。
今の日本では、生存に必要な経済に与るために、不必要な経済活動に参加しなければならない、という状況も生じていると思います。
生産してるのが生存に不必要なものが大部分ということは消費してるほうも生存に不必要なものが大部分ということでしょ。つまり、生存に不要なもののためにより長く働いてるわけ。生存に必要な最小限だけがほしいなら、もっと低収入で我慢すればいい。家も車もネットも携帯もテレビも本もかわず外食や旅行や塾進学もしないならちょっとしか働かなくても大丈夫。
そのプラスの報酬を何に使うかといえば生存に不必要なものでしょ。生存に必要なものだけならほかの人と生活水準かわらないままってことになる。
ベーシックインカムに興味があります。
ベーシックインカム以上に収入が欲しい人だけ、
働くというのでは、社会は回らないのでしょうか。
個人的に今の経済体制に疑問を持っています。
私はお金や経済というのは、より多くの人に豊かさを分配する手段だと考えています。
そして、今の日本は、物質的には、生存的には、十分に豊かさが分配されたと考えています。
もちろん、食料など継続的に消費されていくものは、分配し続けなければなりませんが。
ただ、こういった生存に必要な経済は、今の日本の経済のごく一部になっていると思います。
今の日本の経済の大部分は娯楽などだと思います。ある意味不必要な経済と言ってもいいのかもしれません。
不必要な経済活動に参加しなければならない、という状況も生じていると思います。
私は個人的にこのような状況に疑問を感じるのです。
何も感じない人もいるとは思いますが。
本当は日本人のごく一部が働けば、そのほかの人はゆっくり過ごせるのに、
実際は世の中の大部分の人が、食べていくために朝から晩まで働いている。
このあたりに疑問を感じるのです。
すべての国民にベーシックインカムを与えて、農業やライフラインの確保に奉仕した人にはプラスの報酬が与えられる。
もちろん何かおもしろいものを作って売りたい人はそうすればいい。
そのような経済は、実現可能だと思うのですがどうなのでしょうか。
教えてください。
昔24時過ぎくらいの改札からホームに上がる階段の踊り場みたいなところ(意味不で申し訳ない)で、局部を露出しながら歩いているおじさんを見たことがある。私はホームからエスカレータで降りてきて、それを見てしまったのだけど、すぐに反応できなかった。三秒くらいしてから「え!?」って驚いた。何この非日常!という感じで理解が追いつかなかったんだね多分。しかし曲がりなりにも反応を示したのは私だけで、周りの人は全員スルーだった。少なくない人がいて、半分くらいは多分気づく位置関係だったと思うのに全員無反応。見事なまでのスルー。見間違いか?と思って見直してもやっぱり露出してる。しかも勃ってる。でも誰も反応していない。「キャー」とかざわざわ……とか一切なし。何かね、おじさんも多分反応が欲しくて露出してると思うんだ。ちょっとくらい驚いてあげようよ、って逆に可愛そうになった。でもあのスルー力は凄かった。私が反応したことにもしかしたら周囲は「空気読めよ」とか思ってたのかな、と考えてしまう。私にしか見えてない幻覚だったら相当やばい話。