2024-10-31

にわかれて 尾崎翠

 かごが白い柔らかいつばさをひろげて波の上を飛んでいつてから幾日たつたであらう。いつ迄も黙して続いてゆくと思はれた冬の逝かうとする日、珍らしくその鳥の飲む水を見た。何処か冬のさみしさはひそんでゐたけれど沖から渡つて来る鳥らは、繊細なつばさに春を持つて来たのである。冬にわかれて、移りゆく私の心は美しい動揺のうちに冬と親んでゐた。沈黙のうちに何をかさゝやいた冬であつた。荒れ狂ふ波のひまにも何か私を育んでくれるやうになつかしさを持つた冬であつた。

 冬にわかれて春に帰つてゆかう。

 さう思ふとき、終りの冬はぢつと私の心を抱いて呉れた。さうして、その夜、浪にくれゆく海にむかつて、波に漂ふ白いつばさにむかつて長いあひだ冬を思つた。住みわびた冬だつたけれど。

 その夜から長い雨がつゞいた。宵から夜へ、夜から黎明へと降りつゞく雨に私は清い寂しさに取り巻かれて入江の波の静けさを見つめてゐた。細いあめの糸はひとすぢひとすぢにあをい浪の上に吸はれて行つた。只ひとり此の雨の中をかさをさして、みぎわを行つたら、どんなに淋しいことであらうか。なかにも、かごのぬれつばさは白く渡つて行つた。何処ともない淋しさに疲れてからだを臥床に横たへるとき、夜のなみのひゞきは雨のひまにもかすかに伝わつてきた。そのひびきのひまに私の眠りは安らかな夜へとひろげられていつたのである。寂しい思ひのうちに来たねむりののちに、私が目覚めた時、長い雨からのがれた美くしい朝がよみがへつてゐた。

明日も斯うしてさびしう雨に降り込められて一日を送ることであらう」

 さう思つた宵のこゝろは朝の美しいそらに限りないようにふるへた。その朝私は久々ぶりに柔かい砂の肌ざはりを味はつた。広い浜には若い漁夫がすこやかに肌を見せて、網の目から魚をはづしてゐた。銀色に光る新らしい魚はひとつひとつ砂の上へと落されていつた。目をあけて沖を眺めたとき青谷の岬が濃い水色に海を隈取つてとほくかげを引いてゐた。雪に閉されてたゞ寂しさをのみ語つてゐたみさきが何といふうつくしさに目覚めたことであらう。その朝は、しづかな浪の上をかん槽をこいでいく人が多かつたけれど私はつばさの美しいかごを一羽も見なかつた。冬の終りの極みじかいあひだ此の海にあらはれて、波が春のあたゝかさを湛へるころには、又何処へか移つてしまふ鳥と聞いたけれど、わたしはその見得ぬかなしみに閉ぢられて、渚に立つてゐた。

 冬と共に移つた鳥。その群は今、何処の海を渡つて行くのであらう。冬にわかれるかなしみをのみ渡して再び翼をみせないのか。

 冬にわかれて――私の春に住まなければならない。淋しい冬の追憶に私はいつまでも砂を歩んで、春はもう私の周囲すべてにみちてゐた。

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