死ぬとは主観にとってどういうことなのか子供のころから気が向くと考えてしまっている。
夢を見ている間はともかくそれ以外の時間をすっ飛ばして朝になる。
どうにも主観という機能が停止している間は時間を感じ取れない、時間を感じ取れないということは、その間の時間は一切存在しないものとして処理されるらしい。覚醒時から次の覚醒時への疑似的なタイムスリップ。主観をある時点からある時点へと吐き出すワームホールみたいな。
それで死ぬということは当然主観も存在しなくなる。時間も感じられない。そして唯物論的に考える限り、死ぬという現象には主観が吐き出されるホワイトホールにあたるもの(=後世)が存在しない。じゃあどうなるんです?
自分の理解力で無理に整合性を取ろうとすれば、死ぬ瞬間に向かって、延々と自分にとっての外界=認識世界がスローモーションになっていき、ついに死は訪れないと考えるしかない。睡眠時におけるタイムスリップ現象から類比して考えるかぎりは。