アイカツの実写融合化に関する一連の賛否、現実的な希望と虚しさを感じる。
「居場所を奪われた」感について共感は覚えるものの、「そこは我々のために用意された場所ではない」ことは認めなきゃならないんだよな。「逃げてきた」はずの我々が、「奪う」側になったらつまらない。そういう連鎖は断たなきゃいけない。
その現実と向き合える強い人と、向き合えない弱い人と、分断が起こっているのは辛い。しかし、「我々の気持ち」が「存在しないもの」として扱われることもなく、それでいて、決して少なくない「強い人」たちが積極的に明るく振る舞う様子も見せている。
「まあ、そうなるよな」という暗い気持ちもある。でも、何ならそれ以上に安心感もある。きっと、「居場所はそこだけじゃない」人が増えたんだろう。ああ、それだけこの世は住みやすくなったんだろうな、という希望がある。
フィクトジェンダー・フィクトセクシャルを自認する一人として、「同じ気持ち」でその場にいた人々の声には、心強さも感じる。しかしまあ、本件は、「大人にならなきゃならんよ」という話ではあるのだけど。
セクシャルマイノリティーを認めることが、広い目でフェミニズムに資すると信じられているように。このようなコンテンツのあり方を認めることは、広い目で見ればフィクト系のジェンダー・セクシャリティのあり方を広めることに繋がると私は信じている。
フィクションについて、背後に現実を見出さなければ気が済まないマジョリティに対して、この「気持ち」が目に見えるか?と、チクリと言ってやりたい気持ちもある。