京都に来てから、気持ち悪いことばかりだ。
あと1年もすれば出ていくけれど、ここにはなじめる気がしない。
人を上か下かで判断しようとする気持ち悪さ。
協調という言葉が似合わないように思う。
支配する側、される側、のような。
それで、今時支配のシステムが合っていない事は明確。
支配のシステムがうまく動作するのは、支配される側が
死ぬまで安泰することが条件。
それと引き換えに下であることをまだ許容できるというもの。
年金も貰えるかわからない。雇用も不安定。
こんな時代に上から目線の支配のシステムが当てはまる訳がない。
ここに馴染んだと思うときもあるけど、
違和感がぬぐえない。
馴染んじゃいけないと心が悲鳴を上げている。
私は人を攻撃するのが苦手だ。
人を攻撃しなければ京都では生き辛い。
一番いやなことを強要する、この文化は私には合わない。
京都の人は心を守るために、人の短所を見つける能力が発達している。
嫌味ではなく、それは自然の原理だと思う。人ならそうなる。
京都は住むところではない。
観光に来るところである。
Permalink | 記事への反応(1) | 13:15
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京都じゃちょっと括りが大きすぎる 増田の環境が京都でも特にクソいとかではないのか。
確かにそれはあると思う。市内の会社だ。 おそらく京都の嫌な所を煮詰めたようなのがウチの会社だ。 会社の会長はものすごいコンプレックスを持っていて、 上から押さえつけるよう...