昔から不思議に思ってたので、これを機会に考える
この言葉は、自分から手を出さず相手から手を出すような誘導ととる
なぜなら自分から手を出すのならかかってこいやと言う間もなく手を出すわけだから
(かかってこいやと言ってから手を出す場合もあったりするが)
よく言えば牽制
もっとよく言えばコミュニケーションの伝達手段としての言葉
だが言葉の選び方がかかってこいや、攻撃してこいである
攻撃してこいといって牽制するわけである
コミュニケーションの伝達手段としての言葉がそれしかないのではと思う
つまり学力や知識があれば他の言葉が出てくる
彼等にはそういうものがない
だが関わりたい、コミュニケーションとはそういうもの
人間としてなにかつながりは持ちたい、でもできない
できないというか知らない
学力や知識の無い人は相手にされない
でも彼等は積極的に関わっていこうとする
彼等からは人が離れていくのが基準、
なので彼等は追う側というのが基準
だから、かかってこいやという言葉を使って関わろうとする
それしか言葉が無い、手段がないわけである
そう思う
いま喧嘩凸待ちという放送を聞いてるが
その人がずっと前述の言葉を言っているので考えてみた
Permalink | 記事への反応(1) | 15:08
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なんか全然違う気がする。 彼らにとって暴力を使わずに言葉でどうこうするっていうのは、「相手に気を使っている行為」なんだよ。 だから「俺には気を使わなくていいから、文句有...
暴力を使わず言葉でどうにかするというか、 言葉でどうにかできるのが人間なわけだから そこを「気を使ってる行為」とかうまく理由にしているのがみすぼらしいと感じる