戦前生まれの人の文章のなかには、儚さとか優しさがにじみ出てくるところがある。
特に戦時中、思春期だった世代の文章のなかには深い絶望と、その絶望を飲み込んだ先にある現実が見える。
僕たちの世代は儚さとか絶望を感じることができない。大きな震災や津波はあったけれど、その後にそれは絆だとか復興だとかいった希望にすり替えられてしまう。
日常が崩れたあとの絶望のあとにすぐさま希望が用意されていたのだ。
苦しい日常のなかにあったすがりつくような希望が消え去ったあとの絶望を私たちは感じることはできないのだ。そのさきに自ら、生活というかたちで希望を紡いでいくことも。
これが単なる機会がないというだけの問題であれば、それは私たちが幸福であると言うだけの話である。しかし最近、我々の世代がどうも単純な希望を語る能力しかないのではないかと感じている。
絶望を受けたら希望を語る。それが我々の世代である。実際は、絶望したらまず日常を作ることから始まるのである。その実感から、絶望を知る前の希望とは別種と希望を語ることができるようになるのだが、今は絶望を知る前と同じ種類の希望を語ることで絶望を乗り越えようとしているように思える。
私にはその事がとても危ういことのように思えるのである。